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軽井沢新聞 スペシャル
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Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.6

Kaleidoscope

 軽井沢のおみやげというとジャム、中でもブルーベリーを特産品として選ぶ人が多いようです。「40年ほど前まで、軽井沢にブルーベリーは無かった」と言うと驚く人も多いのですが、ではなぜ、それが軽井沢らしい果実と思われるようになったのでしょうか。

 明治時代、アメリカ人女性を夫人に持つ新渡戸稲造は、西洋野菜の普及のため、中山農園の中山丈平に指導・協力していました。その野菜を買いに来た外国人がブルーべリージャムを食べたいというので、中山丈平は浅間山で採ってきた浅間ぶどう(クロマメノキの果実)でジャムを作りました。これが大変喜ばれ、これ以後、浅間ぶどうのジャムは軽井沢の特産品として販売されたのです。確かに、昭和40年代まではブルーベリー・ジャムといったら浅間ぶどうジャムでした。瓶詰めではなく、缶詰だったと記憶しています。独特の深い味わいがある美味しいジャムで、これを食べると舌が紫色に染まったものです。

 やがて軽井沢は観光ブームになってジャム屋が増え、浅間ぶどうの採集が追いつかなくなってくると、輸入物のブルーベリー(日本ではまだ採れなかったので)を使ってジャムを作るところが増えてきました。昭和60年代になると、浅間山で採ってきたものを買い上げてくれるジャム屋も出てくるほど、浅間ぶどうは貴重なものになりました。その頃、ブルーベリーの国産品が出回るようになり、軽井沢でも栽培が始まります。そして、ジャム屋の店頭にはホンモノのブルーベリージャムが並ぶようになったのです。

 浅間ぶどうは現在、国立公園内(浅間山)での採取が禁止となり、浅間ぶどうジャムは幻のジャムと化しています。「浅間ぶどうジャム」として売られているとしたら、その中身はブルーベリーだったり、輸入物のクロマメノキだったりします。もともと浅間ぶどうはブルーベリーの代用品だったのに、今や、ブルーベリーが浅間ぶどうの代用品になっているというのもおもしろい話ですね。

 先日、なつかしい浅間ぶどうジャムの空き缶が、軽井沢会テニスコート前の中山農園の棚に飾ってあるのを発見。ジャムの歴史を示す貴重な缶が三つ、相当古いものもありました。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.7

Kaleidoscope

 1987年に出版された『あめりか屋商品住宅』(内田青蔵著 住まいの図書館出版局刊)を知人から譲ってもらい、ようやく手に入れることができました。軽井沢では「あめりか屋建築」といえば、大正時代に建てられた貴族の豪華別荘の建築として知られています。それまでの軽井沢の別荘は、外国人を中心に建てられた素朴で質素なものが多かったのですが、あめりか屋によって豪華な洋館別荘が次々と建てられました。あめりか屋を興した橋口信助とはどのような人物なのか、どのようにして貴族たちの別荘を造ることになったのかを知りたいと、大変興味深く読みました。

 橋口信助は子供の頃、畳に座らされることを嫌い、ふと見た洋館に興味を持ったということです。30代初め、事業に失敗して渡米。下男の仕事をするなど苦労を重ねますが、アメリカ家庭を見る機会を得たことが、のちの彼の仕事に影響を与えます。日本で洋館住宅を紹介する仕事をしようと思い、シアトルのビジネスカレッジで建築学を学び帰国。あめりか屋を開設したのは明治42年でした。

 大正5年、野沢組が軽井沢で土地分譲を始め、同時期に「あめりか屋」も軽井沢に出張所を設けています。橋口信助が野沢組に「土地の分譲だけではなく、別荘地の人々が快適に過ごせるような住まいや環境を提供すべきだ」という提案を行い、野沢組はこれを受け入れてあめりか屋とタイアップしました。この年には徳川慶久の別荘を建築。続いて細川護立、津軽承昭、大隈重信など貴族や政財界の人々の別荘建築に関わることになりますが、橋口信助はこれらの人々とどこで知り合ったのでしょうか。彼が住宅の改良をうたった「住宅改良会」への参加を求めた際に、賛助員に名を連ねた徳川慶久や大隈重信の協力を得て、その繋がりから仕事を得たようです。

 あめりか屋は軽井沢では大正10年頃までしか活動していなかったのですが、建築学上では、軽井沢はあめりか屋建築の初期の作品が今も確認できる大切な場所と位置されています。 (軽井沢ヴィネット春号では、この貴重な別荘の一つ、旧・徳川圀順別荘を紹介しています)

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.8

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 今年の春から初夏にかけて、軽井沢ではタンポポが異常ともいえるほどたくさん咲き、「これでは野の花が無くなってしまう」と心配する声が聞かれました。サクラソウを守るボランティア団体"サクラソウ会議"からも「タンポポの駆除を手伝って」というメールが届いたほど。低温に弱いといわれる西洋タンポポが軽井沢でこれだけ増えるのは、軽井沢の気温が上がっていることと関係があるのかもしれません。一方、樹木に囲まれた湯川の木道散策路や別荘の庭では、タンポポの姿はほとんど見られず、そこには、ルリソウやヒトリシズカ、イチゲなど野の花がひっそりと咲いていました。

 今、日本で注目を集めているガーデン・デザイナーの一人が、英国人のポール・スミザー。彼は軽井沢でも、絵本の森美術館の庭をデザインすることで話題になっています。スミザーの庭園造りを紹介した『日陰でよかった』(宝島社刊)という本には、日陰の庭での植栽の知識が掲載され、軽井沢でよく見かける野の花もたくさん載っているので驚きました。スズランやアマドコロ、ユキザサ、ウバユリ、ギボウシなど、決してタンポポが咲くことのない木陰にひっそりと咲くこの花たちを、スミザーは上手に庭づくりに取り入れています。「日陰のある庭のほうが、奥行きのある美しい庭を、早くつくりやすい。植えられる植物の幅も広い。いろいろな演出もできる」とスミザーは述べています。

 軽井沢に移り住んできた人たちの間ではガーデニングが盛んに行われているようです。せっかく軽井沢で暮らすなら、ガーデニングのためにわざわざ木を切ったりせず、木陰でも可憐に咲く野の花を生かした庭を造ることをお勧めします。カラマツの下に咲く、別名ピンクのスズランとも呼ばれるベニバナエンレイソウや、広葉樹の下に咲くレンゲショウマは可愛らしい姿で人気があります。また、野の花を描く画家・深沢紅子さんの絵で知られるフシグロセンノウは朱色が美しく、この花のあるところ、黒い大きなアゲハチョウがやってくるという楽しいおまけつき。立原道造の詩にも出てくる水引草も木の下にたくさん出てきます。今まで取材した中で、私が一番感動した庭は堀多恵子さん(作家・堀辰雄夫人)の庭でした。新築したとき花の設計図を作り、大切に育ててきた花木を植えかえて造った広い庭ですが、その花はすべて軽井沢の野の花だったのです。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.9

Kaleidoscope

 軽井沢を避暑地として見いだした宣教師A.C.ショーが軽井沢を通り過ぎたのは偶然だったのでしょうか。以前は、布教途中に偶然通ったと思われていましたが、近年、そうではないという見方が強まっています。これには、1881年英国で刊行された英国人アーネスト・サトウ著の『明治日本旅行案内』が、1996年に全3巻翻訳出版されたことが影響しているようです。

 アーネスト・サトウは碓氷峠を越える新道を通って軽井沢入りしました。「海抜3270フィートという高地に位置しているので夏期は大変涼しく、さらに蚊がいないことも平野部の不快な暑熱を避ける場所として推薦できるもう一つの理由だ」と、既に避暑地として最適であることを推奨しています。注釈にはショーもディクソンもこの案内書を参考に軽井沢にやって来たということが記されています。

 明治の軽井沢を書いた興味深い本がもう一冊。1889年に英国で出版されたメアリー・フレイザーの『外交官の妻の日本滞在―故郷から故郷への手紙』には、美しい軽井沢の風景が描写されています。「そして今、私は世界でもっともすばらしい書斎で書いています。頭上にはカラマツの枝が快い緑のアーチをつくっています。(略)足の下には百層にもなるカラマツの葉が敷物を織りなしています」メアリー・フレイザーが滞在した英国公使別荘は二手橋を渡ったすぐ左側にありました。そこには、メアリーが記した快い緑のアーチを想像できる大木が今も残っています。

 最近、軽井沢では「モミ、カラマツは人工的に植えたもので、昔は草原。木々は広葉樹だった」という風潮が広がり、針葉樹は切られる傾向にあります。しかし実は、昔から天然のモミ・カラマツがたくさんあったこと、そして避暑地の心地良さをつくっていたことがこうした書物からわかるのです。書物だけではなく、地図や写真などからもうかがい知ることができます。中島松樹氏所有の明治30年の絵図には、ユニオンチャーチ周辺、チャッペル別荘周辺、セール別荘周辺などにたくさんの木々が描かれています。また、万平ホテル付近から遠くを写した明治30年頃の写真には、黒い三角形の樹木がたくさん映し出され、それが針葉樹であることは一目でわかります。軽井沢の歴史の中でモミやカラマツが愛され、美しい風景をつくってきたことをもっと考えるべきではないでしょうか。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.10

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「移り住んで来る人が増えたけど、軽井沢がどういう所なのかを知らない人が多い」と嘆く別荘住民。「地元の人たちこそ分かっていない」と移り住んで来た人たち。「軽井沢に来ているのに、ここが別荘地だということを知らない人もいるんですよ」と、最近の観光客に観光案内所の人も呆れ顔。「仕方ないさ、時代が変わったんだから」で済まされていいのでしょうか。

 「もし、この町が『軽井沢』というブランドを売りに出したら、『買います!』と手を上げる市町村はたくさんいるでしょう。そのくらい軽井沢のブランドは価値があります。トヨタもコカコーラも自社のブランドを守るために多大な費用をかけています。しかし、この町はそのブランドを守ることをしていません。だから、私はもう、軽井沢というブランドに頼ることはやめます」。きっぱりと、こう言い切ったのは10年前の星野佳路氏(星野リゾート社長)。この言葉は衝撃でした。あまりにも的確な表現だったからです。数年後、彼が造ったホテル・ブレストンコートには「軽井沢」が付いていませんでした。「軽井沢というブランドに頼らず、独自の努力で商売をすべきだ」というのが佳路氏の考えなのです。それはまた「軽井沢町はブランドを守る努力をせよ」というメッセージでもありました。

 昨年、軽井沢町は売却された旧スイス公使館別荘(深山荘)を購入し、保存することを決めました。これは「軽井沢のブランドを守る努力をした」と高く評価したいと思います。軽井沢にはかつて、大使館・公使館の別荘がたくさんありましたが、堀辰雄の名作『美しい村』に出てくるチェコスロバキア公使館別荘も数年前に壊され、今やこの深山荘しか残されていません。この別荘を保存しなければ、「軽井沢に大使館・公使館の別荘があった」と言っても、それを証明するものは形として存在しないことになってしまいます。保存・維持するにはお金がかかるので反対した人もいたようですが、ブランドを守るためにお金がかかるのは当然のこと。惜しんではだめなのです。それによって守られる価値はその金額の何倍にもなるのですから。

 8月中旬に町内の書店へ行ったとき、レジの後ろに書かれた新刊書売上げベストテンを見て驚きました。村上春樹著『IQ84』や芥川賞受賞作『終の住処』を抜いて、7月下旬に発行したばかりの宮原安春著『リゾート軽井沢の品格』が1位になっていたのです。

 「仕方ないさ、時代が変わったんだから」と嘆くことはない。まだ、まだ軽井沢の原点を知りたい人はたくさんいる、と嬉しくなりました。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

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