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Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.1

Kaleidoscope

今年の秋も軽井沢は鮮やかな色彩に包まれました。庭にひょっこり姿を現したリコボウを味噌汁に入れたり、きのこうどんにしたり、オリーブオイルとガーリックで炒める「ギリシャ風炒め」も何回か味わい、軽井沢の秋の味覚を楽しみました。軽井沢の山栗は小粒ながら味がいいので、皆さん、拾って栗ご飯や渋皮煮に使っているようです。けれど、なぜか、クルミを拾っている姿はあまり見かけません。落ちたクルミは車につぶされ、道路を汚して無残な姿に...。軽井沢のクルミは味が濃くおいしいので、お菓子作りなどにもっと利用したいもの。軽井沢産のクルミで作ったケーキやタルトは観光客にも魅力的なスイーツにちがいありません。

 甘い話のあとは辛口の話題を。9月に町議会を傍聴しました。まだ、見学したことのない方はぜひ、一度、出かけてみてください。『議会だより』のパンフレットからは窺い知れない会議場の空気や議員の態度、発言などもチェックでき、答える行政側の様子ともどもこれがなかなか面白いのです。自分が1票入れた議員の活躍ぶりをじっくりと観察してみてはいかがでしょう。

 私が初めて軽井沢町議会を傍聴したのは、約20年前。女性が来たというので議員たちは驚いた様子でした。議題が出ると即座に「異議なし!」のひと声で終り議論になりません。これが議会かとあきれたものでした。その頃から比べたら今は数段の進歩です。9月の議会では「まちづくり交付金事業」に関する町役場の答弁に、二人の議員が「私は納得できません!」と喰いついて頑張りをみせていました。

「まちづくり交付金事業」については軽井沢新聞でもアンケート調査を行い、76%の町民が「全町的な説明会が必要」と答えています。ある議員が行った調査でも「77.7%の住民が全町民対象の説明会を希望」と、ほぼ同じような数字が出ています。これだけ多くの町民の声を、議員は無視することができるのでしょうか?

 10月下旬には町議会議員による「議会報告会」が開催されました。今後は報告だけでなく、住民の声を行政に届けるパイプ役としての役割もぜひ果たしてほしいものです。7割以上の住民が持つ不満を解消できるのか、行政ばかりでなく、町議会議員の責任も大きいと感じています。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.2

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 「浅間山が三度白くなると麓に雪が降る」と言われる軽井沢ですが、今年はいつもより早く雪が降ったように感じます。3cmほど積もった雪に慌てて、タイヤをスタッドレスに換えました。

 寒さが一段と増した頃、突然の訃報。相馬雪香さんが永眠されたということでした。金力・権力に屈せず"憲政の神様"と謳われた政治家・尾崎行雄の三女。初めてお会いしたのは1985年でしたが、その前向きな考え方と行動に大いに感銘を受けたものです。今年の軽井沢新聞4月号のインタビューでも「必要とあれば、どこへでも出かけて行きますよ」と話され、お元気に第一線で活躍されていただけに残念でなりません。ご冥福をお祈りします。

 その1週間前、やはりご高齢の素敵なご婦人にお会いする機会がありました。パリ在住のジャーナリスト小川美穂さんから電話があり、マドレーヌ・マルローのピアノコンサートが東京であるから、取材にいらっしゃいというお誘いでした。マドレーヌさんは、作家でドゴール政権の文部大臣だったアンドレ・マルローの夫人。なんと94歳の現役ピアニストです。昨年に引き続き、チャリティ・コンサートが開かれ、利益はすべて日本の子供たちのために寄付されるのだそう。お会いしたときはその若々しい姿にびっくり。「若さの秘訣は?」と尋ねると微笑んで「それは音楽です」。何曲も演奏する舞台姿は輝いていました。

 その会場で「夏にはご協力ありがとうございました」という声があり、振り返ると、主催者の一人、近衛さんでした。軽井沢での『エイブル』映画上映会のPRに軽井沢新聞が協力したことを仰っていたのです。さらにその横には昨年の「軽井沢ヴィネット秋冬号」に登場していただいたピアニストの寺田悦子さん。客席には篠沢秀夫教授夫妻の姿も見えます。小川美穂さんは朝吹登水子さんから紹介していただいた方。ご主人のダリウスさんの個展を見に銀座・数寄屋橋の画廊へ行くと、その画廊のオーナーはこの夏、取材した別荘でお会いした方でした。「軽井沢って、こんなにもつながっている!」と驚くことがたびたびあります。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.3

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 軽井沢の日本人別荘第1号は八田裕二郎別荘。では、「第2号の日本人別荘は?」それは明治32年建築の三井三郎助別荘です。この別荘がまだ現存していることはあまり知られていませんが、日本人が建てた洋館別荘としては最も古く、和風造りと洋館造りの部分に分かれている珍しい建物。昨年末に、この別荘を見る機会がありました。

 詩人タゴールも泊まったという室内の重厚な造りには驚きました。当時の別荘文化を伝える貴重な建物なので、一時は町で保存するという話もあったそう。なぜ立ち消えになったのか謎ですが、管理の方の話では別の方向で保存を検討しているとのこと。かなり傷んでいるので、一刻も早い補修、保存が望まれます。

 ヴィネット・デリス(当新聞6頁の広告参照)の取材で、「フランスで最も美しい村協会」に認定された「美しい村」を訪ねたスタッフが、村役場の人に「どうやって、美しい村にすることができたのですか」と尋ねると「電線地中化をし、緑を生かし、村の歴史を大切にして文化遺産を保護しました。すると村の景観が個性的になり美しくなったのです」と話してくれました。フランスの「美しい村」が世界中から注目を集めている理由がこの言葉に象徴されているように思います。

 1月中旬、「小江戸」といわれる川越へ。まちづくりの成功例としてあげられる川越は行ってみると「なるほど」と思います。電信柱がなく、蔵造りの家並みが独特の情緒を醸し出しています。しかも「さつま芋」という特産品があるのも強み。この日は寒い冬にもかかわらず、駐車場は満車。店の中もにぎわいを見せていました。



 フランスも川越も歴史を振り返って、その土地の宝物を大切にしています。それを考えると、軽井沢にもたくさん歴史上の宝物はあるし、特産品もある、緑もある。「美しい村」になる要素はいっぱい。あとは活かし方しだいです。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.4

Kaleidoscope

 覚えている方も多いのではないでしょうか。旧軽銀座通りの中心にあった「軽井沢ベルコモンズ」、そのオープンのポスターがリスの写真だったことを。梢に乗ったかわいらしいリスは、軽井沢の象徴として写し出され「OPEN」の文字と共に、軽井沢のあちこちに貼られていました。平成15年には町民から「軽井沢町の獣」として選ばれたニホンリス(ちなみに町鳥はアカハラ、町木はコブシ)ですが、「リスの姿を見かけなくなったわねぇ。昔はたくさんいたのに...」そんな声が数年前から聞かれています。原因は色々あるにしても、軽井沢の林がどんどん伐採されていったことも原因の一つであることは否めません。2月に行われたイベント「リスの痕跡を探そう」(2面参照)に私も参加しました。風越公園周辺の林の中でアカマツやクルミの実をかじった跡をたくさん発見し、「よかった、ここにはまだリスがいる」とホッとしたのでした。リスや野鳥のいる軽井沢の環境は大切にしたいものですね。

 3月上旬、単行本「文学者たちの軽井沢」が刊行の運びとなりました。軽井沢という地が文学とゆかり深いということは取材を通してずっと感じてきたことですが、旅行してみると、地方の小さな町でこれだけ文学者たちが関わっているというのはなかなか無いということに気づきます。作家の別荘がたくさんあることや、軽井沢を描いた作品が多くみられるということだけではなく、作家たちの交流の場として軽井沢は大切な所だったということに大きな意味があります。例えば室生犀星。故郷金沢には養家先となった雨宝院や文学記念館があり、居を構えていた東京都大田区にも足跡が残っています。しかし、犀星がいちばん作家仲間と交流し、楽しい時間を過ごしたのは軽井沢だったのです。軽井沢への思い入れの深さは、故郷金沢からの文学碑建立の申し入れを断り、自力で文学碑を軽井沢の二手橋付近に建てたことでもわかります。

 犀星に限らず、「多くの作家たちにとって軽井沢がなぜ、大切な場所であったのか」を知ることは、軽井沢の魅力を知る手がかりとなることでしょう。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.5

Kaleidoscope

 この季節、軽井沢を訪れる人々の楽しみは新緑。木々の芽吹きが始まると、林の中は柔らかな萌黄色に彩られます。そして、気づくと足元には小さな野の花が...。花屋の店頭でパンジーやヴィオラしか見たことのない都会人は、本物のスミレがこんなにも小さいことや、ピンク・白・濃い紫・薄い紫など何色もあることに驚かされるのです。

 また、タラの芽、ワラビ、コゴミなど山菜を採って味わうのも、この季節ならでは楽しみ。これまた、種類がたくさんあって覚えきれません。最近の私のお勧め山菜はギョウジャニンニク。ただの葉っぱみたいなのに、食べるとニンニクのような味がします。1株分けてもらって庭に植えたら大きくなり、様々な料理に使えるので重宝しています。

 ところで、明治時代、軽井沢へ避暑に訪れた外国人たちは、いったいどんなものを食べていたのでしょう。取材をしてみると、食文化に関しても軽井沢は特別な処だったことがわかります。

 明治21年に別荘を建てたA.C.ショーのクチコミで、友人たちが軽井沢へやってきます。外国人向けに改築した亀屋(万平ホテル)に泊まる人もいましたが、別荘を所有する人も増えていきました。明治26年には外国人別荘が21戸。その前年には、旧道に肉屋が2軒、牛乳屋が3軒、氷屋が2軒できていました。そう、彼ら西洋人は、日本に来たから、信州に来たからといって山菜や蕎麦を食べていたわけではなく、自分たちのライフスタイルをそのまま持ってきていたのです。信州の寒村にすぎなかった軽井沢はたちまち欧風化して、旧軽井沢には肉屋、パン屋が増えていきました。ホテルでは、軽井沢に住む外国人から教えてもらい西洋野菜を栽培したり、豚や鶏を飼って自家製ハムやソーセージを作っていたそうです。

 明治・大正時代の日本では、ご飯、味噌汁、焼魚、納豆、漬物といった和食が一般的。今でこそ、フランス料理のディナーコースも身近なものになりましたが、当時の一般庶民にとっては、見る機会すらない超高級料理でした。「リゾート軽井沢」の歴史をたどると、外国人の影響を大きく受けていることがわかりますが、食文化もまた例外ではなく、パン、ジャムなど、その影響が今日へと続いていることも興味深いのです。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.6

Kaleidoscope

 軽井沢のおみやげというとジャム、中でもブルーベリーを特産品として選ぶ人が多いようです。「40年ほど前まで、軽井沢にブルーベリーは無かった」と言うと驚く人も多いのですが、ではなぜ、それが軽井沢らしい果実と思われるようになったのでしょうか。

 明治時代、アメリカ人女性を夫人に持つ新渡戸稲造は、西洋野菜の普及のため、中山農園の中山丈平に指導・協力していました。その野菜を買いに来た外国人がブルーべリージャムを食べたいというので、中山丈平は浅間山で採ってきた浅間ぶどう(クロマメノキの果実)でジャムを作りました。これが大変喜ばれ、これ以後、浅間ぶどうのジャムは軽井沢の特産品として販売されたのです。確かに、昭和40年代まではブルーベリー・ジャムといったら浅間ぶどうジャムでした。瓶詰めではなく、缶詰だったと記憶しています。独特の深い味わいがある美味しいジャムで、これを食べると舌が紫色に染まったものです。

 やがて軽井沢は観光ブームになってジャム屋が増え、浅間ぶどうの採集が追いつかなくなってくると、輸入物のブルーベリー(日本ではまだ採れなかったので)を使ってジャムを作るところが増えてきました。昭和60年代になると、浅間山で採ってきたものを買い上げてくれるジャム屋も出てくるほど、浅間ぶどうは貴重なものになりました。その頃、ブルーベリーの国産品が出回るようになり、軽井沢でも栽培が始まります。そして、ジャム屋の店頭にはホンモノのブルーベリージャムが並ぶようになったのです。

 浅間ぶどうは現在、国立公園内(浅間山)での採取が禁止となり、浅間ぶどうジャムは幻のジャムと化しています。「浅間ぶどうジャム」として売られているとしたら、その中身はブルーベリーだったり、輸入物のクロマメノキだったりします。もともと浅間ぶどうはブルーベリーの代用品だったのに、今や、ブルーベリーが浅間ぶどうの代用品になっているというのもおもしろい話ですね。

 先日、なつかしい浅間ぶどうジャムの空き缶が、軽井沢会テニスコート前の中山農園の棚に飾ってあるのを発見。ジャムの歴史を示す貴重な缶が三つ、相当古いものもありました。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.7

Kaleidoscope

 1987年に出版された『あめりか屋商品住宅』(内田青蔵著 住まいの図書館出版局刊)を知人から譲ってもらい、ようやく手に入れることができました。軽井沢では「あめりか屋建築」といえば、大正時代に建てられた貴族の豪華別荘の建築として知られています。それまでの軽井沢の別荘は、外国人を中心に建てられた素朴で質素なものが多かったのですが、あめりか屋によって豪華な洋館別荘が次々と建てられました。あめりか屋を興した橋口信助とはどのような人物なのか、どのようにして貴族たちの別荘を造ることになったのかを知りたいと、大変興味深く読みました。

 橋口信助は子供の頃、畳に座らされることを嫌い、ふと見た洋館に興味を持ったということです。30代初め、事業に失敗して渡米。下男の仕事をするなど苦労を重ねますが、アメリカ家庭を見る機会を得たことが、のちの彼の仕事に影響を与えます。日本で洋館住宅を紹介する仕事をしようと思い、シアトルのビジネスカレッジで建築学を学び帰国。あめりか屋を開設したのは明治42年でした。

 大正5年、野沢組が軽井沢で土地分譲を始め、同時期に「あめりか屋」も軽井沢に出張所を設けています。橋口信助が野沢組に「土地の分譲だけではなく、別荘地の人々が快適に過ごせるような住まいや環境を提供すべきだ」という提案を行い、野沢組はこれを受け入れてあめりか屋とタイアップしました。この年には徳川慶久の別荘を建築。続いて細川護立、津軽承昭、大隈重信など貴族や政財界の人々の別荘建築に関わることになりますが、橋口信助はこれらの人々とどこで知り合ったのでしょうか。彼が住宅の改良をうたった「住宅改良会」への参加を求めた際に、賛助員に名を連ねた徳川慶久や大隈重信の協力を得て、その繋がりから仕事を得たようです。

 あめりか屋は軽井沢では大正10年頃までしか活動していなかったのですが、建築学上では、軽井沢はあめりか屋建築の初期の作品が今も確認できる大切な場所と位置されています。 (軽井沢ヴィネット春号では、この貴重な別荘の一つ、旧・徳川圀順別荘を紹介しています)

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.8

Kaleidoscope

 今年の春から初夏にかけて、軽井沢ではタンポポが異常ともいえるほどたくさん咲き、「これでは野の花が無くなってしまう」と心配する声が聞かれました。サクラソウを守るボランティア団体"サクラソウ会議"からも「タンポポの駆除を手伝って」というメールが届いたほど。低温に弱いといわれる西洋タンポポが軽井沢でこれだけ増えるのは、軽井沢の気温が上がっていることと関係があるのかもしれません。一方、樹木に囲まれた湯川の木道散策路や別荘の庭では、タンポポの姿はほとんど見られず、そこには、ルリソウやヒトリシズカ、イチゲなど野の花がひっそりと咲いていました。

 今、日本で注目を集めているガーデン・デザイナーの一人が、英国人のポール・スミザー。彼は軽井沢でも、絵本の森美術館の庭をデザインすることで話題になっています。スミザーの庭園造りを紹介した『日陰でよかった』(宝島社刊)という本には、日陰の庭での植栽の知識が掲載され、軽井沢でよく見かける野の花もたくさん載っているので驚きました。スズランやアマドコロ、ユキザサ、ウバユリ、ギボウシなど、決してタンポポが咲くことのない木陰にひっそりと咲くこの花たちを、スミザーは上手に庭づくりに取り入れています。「日陰のある庭のほうが、奥行きのある美しい庭を、早くつくりやすい。植えられる植物の幅も広い。いろいろな演出もできる」とスミザーは述べています。

 軽井沢に移り住んできた人たちの間ではガーデニングが盛んに行われているようです。せっかく軽井沢で暮らすなら、ガーデニングのためにわざわざ木を切ったりせず、木陰でも可憐に咲く野の花を生かした庭を造ることをお勧めします。カラマツの下に咲く、別名ピンクのスズランとも呼ばれるベニバナエンレイソウや、広葉樹の下に咲くレンゲショウマは可愛らしい姿で人気があります。また、野の花を描く画家・深沢紅子さんの絵で知られるフシグロセンノウは朱色が美しく、この花のあるところ、黒い大きなアゲハチョウがやってくるという楽しいおまけつき。立原道造の詩にも出てくる水引草も木の下にたくさん出てきます。今まで取材した中で、私が一番感動した庭は堀多恵子さん(作家・堀辰雄夫人)の庭でした。新築したとき花の設計図を作り、大切に育ててきた花木を植えかえて造った広い庭ですが、その花はすべて軽井沢の野の花だったのです。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.9

Kaleidoscope

 軽井沢を避暑地として見いだした宣教師A.C.ショーが軽井沢を通り過ぎたのは偶然だったのでしょうか。以前は、布教途中に偶然通ったと思われていましたが、近年、そうではないという見方が強まっています。これには、1881年英国で刊行された英国人アーネスト・サトウ著の『明治日本旅行案内』が、1996年に全3巻翻訳出版されたことが影響しているようです。

 アーネスト・サトウは碓氷峠を越える新道を通って軽井沢入りしました。「海抜3270フィートという高地に位置しているので夏期は大変涼しく、さらに蚊がいないことも平野部の不快な暑熱を避ける場所として推薦できるもう一つの理由だ」と、既に避暑地として最適であることを推奨しています。注釈にはショーもディクソンもこの案内書を参考に軽井沢にやって来たということが記されています。

 明治の軽井沢を書いた興味深い本がもう一冊。1889年に英国で出版されたメアリー・フレイザーの『外交官の妻の日本滞在―故郷から故郷への手紙』には、美しい軽井沢の風景が描写されています。「そして今、私は世界でもっともすばらしい書斎で書いています。頭上にはカラマツの枝が快い緑のアーチをつくっています。(略)足の下には百層にもなるカラマツの葉が敷物を織りなしています」メアリー・フレイザーが滞在した英国公使別荘は二手橋を渡ったすぐ左側にありました。そこには、メアリーが記した快い緑のアーチを想像できる大木が今も残っています。

 最近、軽井沢では「モミ、カラマツは人工的に植えたもので、昔は草原。木々は広葉樹だった」という風潮が広がり、針葉樹は切られる傾向にあります。しかし実は、昔から天然のモミ・カラマツがたくさんあったこと、そして避暑地の心地良さをつくっていたことがこうした書物からわかるのです。書物だけではなく、地図や写真などからもうかがい知ることができます。中島松樹氏所有の明治30年の絵図には、ユニオンチャーチ周辺、チャッペル別荘周辺、セール別荘周辺などにたくさんの木々が描かれています。また、万平ホテル付近から遠くを写した明治30年頃の写真には、黒い三角形の樹木がたくさん映し出され、それが針葉樹であることは一目でわかります。軽井沢の歴史の中でモミやカラマツが愛され、美しい風景をつくってきたことをもっと考えるべきではないでしょうか。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.10

Kaleidoscope

「移り住んで来る人が増えたけど、軽井沢がどういう所なのかを知らない人が多い」と嘆く別荘住民。「地元の人たちこそ分かっていない」と移り住んで来た人たち。「軽井沢に来ているのに、ここが別荘地だということを知らない人もいるんですよ」と、最近の観光客に観光案内所の人も呆れ顔。「仕方ないさ、時代が変わったんだから」で済まされていいのでしょうか。

 「もし、この町が『軽井沢』というブランドを売りに出したら、『買います!』と手を上げる市町村はたくさんいるでしょう。そのくらい軽井沢のブランドは価値があります。トヨタもコカコーラも自社のブランドを守るために多大な費用をかけています。しかし、この町はそのブランドを守ることをしていません。だから、私はもう、軽井沢というブランドに頼ることはやめます」。きっぱりと、こう言い切ったのは10年前の星野佳路氏(星野リゾート社長)。この言葉は衝撃でした。あまりにも的確な表現だったからです。数年後、彼が造ったホテル・ブレストンコートには「軽井沢」が付いていませんでした。「軽井沢というブランドに頼らず、独自の努力で商売をすべきだ」というのが佳路氏の考えなのです。それはまた「軽井沢町はブランドを守る努力をせよ」というメッセージでもありました。

 昨年、軽井沢町は売却された旧スイス公使館別荘(深山荘)を購入し、保存することを決めました。これは「軽井沢のブランドを守る努力をした」と高く評価したいと思います。軽井沢にはかつて、大使館・公使館の別荘がたくさんありましたが、堀辰雄の名作『美しい村』に出てくるチェコスロバキア公使館別荘も数年前に壊され、今やこの深山荘しか残されていません。この別荘を保存しなければ、「軽井沢に大使館・公使館の別荘があった」と言っても、それを証明するものは形として存在しないことになってしまいます。保存・維持するにはお金がかかるので反対した人もいたようですが、ブランドを守るためにお金がかかるのは当然のこと。惜しんではだめなのです。それによって守られる価値はその金額の何倍にもなるのですから。

 8月中旬に町内の書店へ行ったとき、レジの後ろに書かれた新刊書売上げベストテンを見て驚きました。村上春樹著『IQ84』や芥川賞受賞作『終の住処』を抜いて、7月下旬に発行したばかりの宮原安春著『リゾート軽井沢の品格』が1位になっていたのです。

 「仕方ないさ、時代が変わったんだから」と嘆くことはない。まだ、まだ軽井沢の原点を知りたい人はたくさんいる、と嬉しくなりました。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.11

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 標高1000mの高原の町・軽井沢では、ほんの一瞬のうちに霧がまいてきます。夏だけではなく季節を問わず春も秋も冬も、時間を問わず朝も夜も昼もふいに現われ、その流れる速さには驚かされます。「洗濯物が乾かない」「湿気がひどい」「車の運転が危ない」などの理由から地元の人には好まれない霧ですが、訪れる人にとってはロマンチックで魅力的。多くの作家や画家たちによって霧の風景が幻想的に描写されています。特に推理小説では「別荘」「林の中」「霧」というミステリアスな要素があるため、軽井沢がその舞台に使われることも多いようです。

 軽井沢でよく見られるのは碓氷峠から流れてくる霧。峠を越える気流の断熱膨張によって空気の温度が下がり、峠の中腹あたりで発生する霧は、旧軽井沢・新軽井沢から中軽井沢へと流れて行きます。また、地表面が放射によって冷え、それに接した空気の温度が下がり、水蒸気を含みきれなくなって小さな水滴となることがあります。これは信濃追分あたりに発生することの多い霧です。霧があるからこそ維持できる美しい苔庭。冷却した霧の粒がまとわりついて煌めく霧氷。霧は様々な高原の美しい表情を見せてくれます。

 暮らしてみるとこうした軽井沢ならではの自然の美しさが見えてきますが、生活の中でもこの地ならではの不思議なことに出会います。そしてそれが、意外な発見につながったりもします。

 例えば、軽井沢ではどの店も「11時には閉店」。これはなぜとよく訊かれます。「とっても不便。コンビニも11時迄だなんて」とコンビニは深夜営業が普通だと思っている旅行者や移り住んできたばかりの人にとっては?マークなのでしょう。そういう人に私は「軽井沢は宣教師が拓いた町だから、健康的なリゾートにするために、深夜営業や風俗営業は禁止しているんです」と言います。すると、それまで憤慨していた人も「なるほど。さすが軽井沢ね」と、ここが特別な町であることに納得します。

 明治・大正の時代に、宣教師はじめ軽井沢を築いてきた先人たちの精神が、今の時代にまで引き継がれているって、考えてみればスゴイことです。歴史や伝統を尊重し、不便だからといって簡単に変えないことも素晴らしい。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.12

Kaleidoscope

 早いもので、また、今年もクリスマスの季節が近づいてきました。

 軽井沢のクリスマスイベントは、今では冬の定番としてテレビでも紹介され、多くの観光客が訪れるようになりましたが、実は軽井沢のクリスマスがこれだけポピュラーになったのは、意外にもそう古くからのことではないのです。

 軽井沢のクリスマスは本来、宣教師さんたちが厳かに教会礼拝を行うだけの簡素なものでした。夏には観光客が押し寄せるようになった1975年頃でも、観光客・別荘客が冬の軽井沢に訪れることは少なく、クリスマスもお正月もひっそりとしていました。もちろん、旧軽銀座も軽井沢駅前もイルミネーションはありません。唯一あったのは、鹿島ノ森に輝くツリーのイルミネーション。雪の夜、木々に囲まれ煌めいているクリスマスツリーは、ファンタジックな雰囲気に包まれていました。やがて軽井沢にペンションブームが起ると、ペンションでのクリスマスパーティーが盛んになり、ホテルのディナーショーや国際クリスマスパーティーも恒例となりました。  町ぐるみのイベント『クリスマスタウン』(現在の名称は『ウィンターフェスティバル』)が行われるようになったのは、1993年頃、旧軽井沢の商店の奥さんたち数人が旧軽ロータリーをきれいにしたいと、クリスマスツリーを飾ったのがきっかけでした。旧軽銀座では針金のハンガーを星型にしてイルミネーションを作ったり、手作りのリースを飾ったりして、ヨーロッパのクリスマスのような雰囲気を出しました。やがて、イベント会社が参入し、商工会や観光協会も加わる町ぐるみのイベントとなっていったのです。

 30年の間、ほぼ毎回、軽井沢のクリスマスを取材してきましたが、雪に覆われた樅の木、教会の礼拝、クリスマスを祝う宣教師さんたち...など、軽井沢ではクリスマス風景のどれもが「軽井沢」にぴったりはまっていました。

 雪の夜、林の向こうにほのかに光るクリスマスツリーの輝き、そんな軽井沢の素朴な風景は軽井沢の原点につながっているように思います。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.13

Kaleidoscope

軽井沢にようやくやって来た新緑の季節。例年より長く厳しい冬だっただけに、花や緑がより美しく感じられます。

 早くも夏に向けて様々なイベントの企画が伝わってきました。軽井沢新聞4月号にも掲載した軽井沢別荘団体連合会の写真展もその一つ。「私の好きな軽井沢」だけではなく「私の嫌いな軽井沢」の写真を募集して展示しようという試みがおもしろい。きっと、見たくないような軽井沢の写真が出て来ることでしょう。どんな作品が集まるのか、興味シンシンといったところでしょうか。

 さて、話は東京へと飛びますが、都心に新しいファションビルが幾つかオープンし、注目を集めています。その一つ、「東急プラザ 表参道原宿」のビルをオープンに先駆けて、プレス内覧会で取材させてもらいました。なぜ、東京のビルを取材するのかというと、その6階の屋上には森があり、そのデザイン設計をしたのが軽井沢在住の女性だからなのです。

 軽井沢ヴィネットの"南ヶ丘リポート"でもお馴染みの環境アドバイザー・鈴木美津子さん(しいある倶楽部代表)がその人。彼女は羽田空港の庭園を設計したことでも知られていますが、この都会のビルの屋上に森を造ったその手法に、またしても驚かされました。

 そのビルは、原宿の駅から表参道を歩いて行くと、屋上に緑の樹木がたくさん見えてくるのですぐわかります。さっそく、屋上へ上るとそこには大きな木が26本も。中には軽井沢から運んだイロハモミジや樹齢100年を超えるというケヤキもあり、いったい根はどうなっているのかと不思議に思いました。後で鈴木さんに尋ねたところ、床下に2mの空間を設けて軽量の特殊な土を入れ、排水装置を設けるなど最新技術を駆使しているそう。  さらに驚かされたのは、中央の庭にアサマフウロやイカリソウ、ワレモコウなど野の花が植えられていたこと。いかにも野の花を愛する彼女らしく、手書きの名札が添えられていました。

 「癒しの空間、森を創出」を謳ったこのビルのように、これからも都会には環境配慮型の商業施設が造られていくことでしょう。開発や建築のために簡単に樹木を伐採する軽井沢は、もしかしたら近い将来、「都会に負けないように緑を維持していく方法」を考えなくてはいけなくなるかもしれない...と、そう思った取材でした。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.14

Kaleidoscope

 この冬から、「ビル・ゲイツ氏が別荘を造る」という噂が流れていました。有名人が別荘を建てることなど軽井沢では珍しいことではなく、大騒ぎすることでもありません。歴史を振り返ってみれば、そうした人物の名が次々と出てくるのが軽井沢だからです。むしろ、問題なのは、約6000坪という広い土地の樹木を皆伐(敷地全ての木を伐採)してしまったという事実です。

 私がその現場へ行ってみたのは1月。まだ、雪が積もる前で、切り株があちこちに残っていました。千ヶ滝西区の知人たちも「全部切るなんてひどいね」と、丸坊主になった土地に眉をひそめていました。

 2月に入ると、「マイクロソフト」「ビル・ゲイツ」など具体的な名前が出て、噂は街中に広がっていったのです。3月になると、「ビル・ゲイツさんが別荘を建設?」と「?」マークを入れて噂をだけを書いた新聞記事が出てきました。取材して裏をとってから記事にするのがジャーナリズムの基本。噂だけで記事にするとは信じられません。しかも「軽井沢新聞が書いている」と勘違いする人もいて、本当に困ってしまいました。

 5月に入り、テレビや週刊誌でも話題に。もちろん、マスコミは取材した上で報道していましたが、結局、その真相ははっきりしなかったようです。

 問題だと思うのは、最初に書いたように広大な敷地すべての樹木の伐採。これだけの広さを一気に切ってしまったら、そこで生きている動植物はじめ自然への影響が必ずあるはずだからです。町役場の生活環境課に訊いたところ、「植栽計画書は出ています」と担当者。「計画どおりに行ったかどうかのチェックはしますか」と尋ねると、 「100件以上も届け出があるのでできません」との答え。

 これでは紙1枚の植栽計画さえ出せば広い敷地の伐採もOKで、調べに来ないのだから、植栽計画書通りにしなくても構わないということになります。

 一昨年に町が行った町民アンケート調査では「継承すべき軽井沢らしさは」という質問に「緑豊かな森のイメージ」とあげた人が約8割を占めました。

 町役場は、こうした町民の願いを受け、豊かな緑を守るためにもっと毅然とした態度をとる必要があります。少なくとも、計画書を提出するだけで済むということだけでは片手落ち。計画書どおりかを確認すべきで、その方法はいくらでもあります。例えば、終了後の写真を提出させることも一つの方法でしょう。町民の願いを知っていたら、土地の所有者も皆伐という方法はとらなかったかもしれません。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.15

Kaleidoscope

 カッコウの鳴く爽やかな季節になりました。7月に入っても庭の山桜の梢にウグイスがやって来て、すばらしい歌声を聞かせてくれます。我が家の山桜は樹齢35年の大木で、満開になると、その美しさに道行く人が目を見張るほど。もしかしたら、ご近所からは「鬱蒼としている」「落葉が迷惑」と思われているかもしれませんが、切るつもりは毛頭なく、勝手に「桜の名所」と呼んでいます。この大木1本あるだけで四季折々の風情を感じられ、野鳥たちがやってくるから木に虫も付かないし、美声も聞ける。山桜の木はお薦めです。

 大木があっても陽あたりのよい我が家。いよいよ太陽光発電システムを取り入れることにしました。設置したいと思いつつもなかなか踏み切ることができなかったのですが、今回の「大飯原発再稼働」への政府の姿勢、東電の事故報告書や株主総会などの報道を見ているうち呆れかえり、「自分でできることはやらなければ」という義務感のようなものを感じたのです。

 軽井沢の電力は中部電力。中電の浜岡原発は直下に活断層があり、その危険性はよく知られていますが、現在、再稼働に向けて高さ18mの防波壁を建設中。工事費用約1000億円は電気料金に上乗せされます。「総括原価方式」では電力会社のやりたい放題。こうした仕組みを知った私たちは、もうそれを許すことができません。「政治には頼れない。自分でできることをやろう」という一般市民の行動がこれからも広がっていくことでしょう。

 しかし、太陽光発電の光のためにと庭の木々を切ってしまっては本末転倒。樹木がたくさんがあるからこそ涼しく心地よく過ごせ、軽井沢としての価値があるのですから、その魅力を壊してまでやることではありません。我が家も桜の木がさらに大きくなり、屋根を覆うようになったら、太陽光発電はできなくなるでしょう。そのときは、別の方法を考えます。

 例えば、地中熱。星野リゾートは地中熱利用でエネルギーを生み出し成功しています。「地中熱利用はヨーロッパでは発達している技術。火山や温泉があり地下水も豊富な日本に向いている」と星野リゾート・エネルギーシステムの担当者は話しています。「地中熱利用促進協会」というのもあって、地中熱利用の研究は進んでいるようです。樹木の多い軽井沢だからこそ、今後は地中熱利用の方法を積極的に考えてみるのもいいかもしれませんね。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.16

Kaleidoscope

 小雨の降る7月初旬、明治時代の古い別荘を見る機会がありました。この別荘は以前から気になっていた建物。日本風の外観だけれど、「下見板張りで紅殻塗り、暖炉の土管煙突がある」ということから、軽井沢の別荘建築に興味のある人なら、西洋人が建てた相当古い別荘だということが分かります。明治の頃は建築用の木材が手に入りにくかったらしく、中山道・軽井沢宿の廃業した旅籠を買い取り、その資材で建てた外国人の別荘がたくさんありました。この別荘の前を通るたび、もしやそういう外国人別荘ではないだろうかと思っていたのです。

 この日は、軽井沢ナショナルトラスト会長の中島松樹さんも一緒に訪問。現所有者の深川さんは、土地の履歴がわかる事項証明書を用意して待っていてくださいました。

 明治42年に地上権が設定され(当時外国人に土地を売ることはできなかった)、その地上権者がジョーアンナ・アリス・キルビーであることが分かりました。「キルビーさんといえば...!」私たち軽井沢ナショナルトラスト関係者には馴染みのある名前です。剣豪小説で知られる作家・柴田錬三郎の別荘も旧キルビー別荘。しかし、外国人宣教師に詳しい中島さんでさえ、キルビーに関する資料がなく、どういう人物なのか分かりませんでした。このとき初めて女性であることが判明。深川さんの話から英国人宣教師ではないかと思われました。キルビーは一度この別荘を手放しますが、昭和24年に再び購入。おそらく帰国し、再び日本に戻ったのではないかと中島さんは推測します。

 キルビーが買い戻したほど気に入っていた別荘は103年の時を経て、今なお健在。

 その姿は当時のまま、愛宕の森にひっそりと佇んでいます。数日後、「軽井沢の歴史のすばらしさを知ってもらうためにも何とか残していきたい」と書かれた深川さんからの手紙が届きました。

(次号へ続く)

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.17

Kaleidoscope

 2年前の秋、「ウイン別荘が工事している。売りに出されるのかも...」という情報が入り、あわてて様子を見に行きました。

  「ウイン別荘」とは軽井沢に現存する数少ない明治時代の建物の一つ。アメリカ人宣教師ウイン・トーマス・クレイが建て、後にアイルランド文学の翻訳者で歌人の片山廣子が夏を過ごした別荘としても知られています。片山廣子は、芥川龍之介がその才能を認め心惹かれた美しく聡明な人物。片山廣子母娘と交流があった堀辰雄も訪れているという文学者ゆかりの別荘です。文芸評論家の吉村祐美さんは「文学的にも大切な軽井沢の文化遺産。絶対、残さなくてはいけない別荘」と断言します。

 しかし、これまで一度も雨戸が開いているのを見たことがなく、「今でも別荘として利用されているのだろうか、利用されていないなら、いつ壊されるかわからない」と、ずっと心配していました。

 2年前に屋根の工事を見たとき思わず駆け寄り、作業をしている人に「売りに出ているって、ほんと?」と問い詰めてしまいました。その人は笑って、「持ち主の人はこの別荘を大切にしているよ。今年は幾らと、予算を組んで修理をしているんですよ」と言い、「こんなこと、本当は軽井沢町がするべきことなんだよね」とも。この別荘の歴史的価値をよく知っている工務店の人でした。

 そしてこの夏、偶然通りかかると、ウイン別荘に灯りが点いているので思わず立ち寄りました。所有者のUさんは突然の訪問にもかかわらず、「この別荘が大好きなので、売りに出されないか心配していたんです」という私の話を聞いて、快く家の中へ通してくれました。建物の中は白い木の壁で、想像していたのとは全く違う明るい雰囲気。購入したときから変えずに使っているそうです。お洒落なインテリアは、当時としてはかなり斬新なデザインの別荘だったことでしょう。

 Uさんはこの別荘を大切にすると話していましたが、毎年かかる修理代はおよそ100万円だとか。古くなればなるほどもっとかかるに違いありません。個人の力には限界があり、もっと多くの人の協力が必要。軽井沢ナショナルトラストが中心になって、積極的にこうした軽井沢の宝を守るための策を講じる必要があると感じた2012年の夏でした。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.18

Kaleidoscope

 5年にわたり工事を行っていた東京駅が10月1日グランドオープンし、マスコミを賑わせています。見事に甦ったその美しい姿に驚いた人も多かったことでしょう。

 更に驚くべきは、駅としての機能が充実していることです。甦った東京駅は、「古いものは壊し、建て替えることによって機能的にする」という、今までの建築の常識を覆し、歴史的建造物を活かしながらも機能の充実が可能であることをはっきりと示しました。

 1980年代には東京駅が壊されるという話もありました。駅舎を壊して高層ビルに建て替えるという話が本格化し、赤レンガ駅舎保存の市民運動が起こりました。政府は専門家の意見も聞き、保全を決定。2003年、国の重要文化財に指定されたのです。

 壊してしまったら、その歴史の重みは二度と造り出すことはできません。そっくりに造ったとしても、重厚感、存在感は決して同じようにはなりません。「壊されなくてよかった」威風堂々とした東京駅を見て、心からそう思いました。

 駅は町の顔とも言えますが、軽井沢の駅舎はどうでしょうか。今年の10月で長野新幹線は開業15周年。軽井沢町が建てた現在の駅ビル「さわやかハット」も15年を迎えます。以前の軽井沢駅を知らない人も多くなってきていますが、赤い瓦屋根の白い駅は「高原の小さな駅」の趣がありました。新幹線用の駅建設のため取り壊しになるとき、駅舎保存の署名運動が起こりました。その結果、軽井沢町は当時、各地で造られたペデストリアンデッキ(高架の歩行者回廊)を備えた駅ビルを建設し、以前の駅を別の場所に復元して駅舎記念館として残しました。

 しかし、このペデストリアンデッキは厳寒の軽井沢には適していなかったようです。降り積もった氷雪を融かすためにデッキの路面下に電熱線を敷いて、かなりの費用をかけたにもかかわらず、真冬にデッキの上を歩いている人はほとんど見かけません。しかも、デッキの下は日陰になり冬は凍って、車の運転も危険な状態に。ビルの床には高価な御影石や大理石を貼ったのに、凍って滑る人が続出。ついに数ヶ月後、町役場はカーペットを敷きました。現在の駅の状態しか知らない人に「グリーンのカーペットの下は御影石と大理石」と言うと驚きます。

 中軽井沢駅は交流施設がまだ建設中ですが、今度はそんな失敗のないようにと願っています。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.19

Kaleidoscope

私が東京から軽井沢へ移り住んで、今年でちょうど40年。「軽井沢はどう変わりましたか?」と訊かれても、変わりすぎたことが多くて、何から話してよいか戸惑ってしまいます。軽井沢は良い方向へ変わったのでしょうか?

 「おじさん達が守ってくれなかったから、軽井沢がこんなになってしまった!」という可愛い子供の声で、多くの人々に衝撃を与えた放送ドラマ『軽井沢タイムマシン』。2002年~2004年にFM軽井沢で放送され話題となりました。2シリーズ、全12作あり、一昨年まで繰り返し放送されたから聴いたことのある人も多いのではないでしょうか。「軽井沢の歴史探訪と軽井沢の将来展望とのシンクロ」がコンセプト。そこには作者でナレーターの星崎遼さんの鋭い分析と批判、軽井沢への強い愛情が込められていました。

 第1作は軽井沢へゴルフに来た男性が一人の男の子と出会い、いつしかゴルフ場になる以前の飛行場だった時代へ。遥か昔の意外な軽井沢に出合います。そして第3作。男の子に連れられて今度は何十年後かの軽井沢へ。そこには廃墟になった街の姿がありました。「おじさん達が守ってくれなかったから、軽井沢がこんなになってしまった!」と男の子は叫ぶのです。「軽井沢はいったいどうなるんだ!」この放送を聴くために毎週末、軽井沢へ来ている(その頃インターネットでは聴けなかったので)という若手別荘族の間で、こんなメールが回りました。第4作で、この1話は完結します。軽井沢が廃墟のままでなくてよかったとホッとしたのでした。

 このドラマの根底に流れているのは「軽井沢の原点」です。A.C.ショーや先人達が築いた「避暑地としての精神」をうまく織り込んで仕上げたドラマにすっかり魅了され、ぜひ、この脚本を掲載させてほしいと知人を通して頼みました。実現にはいたりませんでしたが、その後もドラマは続き、時にはユーモアをまじえて"軽井沢の精神"をさりげなく伝え、繰り返し長い間オンエアされたのです。

 星崎遼さんが2012年6月に亡くなったことを知ったのは、秋になってからでした。星崎さんのご冥福をお祈りします。「軽井沢の原点」に多くの人が気づくためにも、このドラマは繰り返し放送してほしいと願っています。

「Kaleidoscope」は今号をもって、しばらくお休みします。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.20

新聞で見えてくることは何?

ph_201404-01.jpg 相馬雪香さん
「憲政の父」と言われる政治家・尾崎行雄の娘、相馬雪香さんは子供の頃から軽井沢で夏を過ごし、晩年は年間を通して軽井沢で暮らした。「難民を助ける会」を設立し、「軍備の再武装ではなく、道義と精神の再武装が世界の平和をもたらす」と呼びかけ、96歳で亡くなるまで世界各地を駆け巡った。その功績は大きく、エイボン女性大賞やカナダの「世界平和と人道援助促進功労表彰状」など数々の賞を受けている。最後にお会いしたのは、雪の降る軽井沢駅だった。私を見て「この頃の軽井沢はどうなの?」と尋ねられた。会議のため韓国へ向かうということだったが、このとき既に90歳を超えていた。

 雪香さんは20年以上前に、別荘訪問の取材で訪れた私に「新聞は1紙だけではだめ」ということを教えてくれた人だ。当時80歳近かった彼女は毎朝5紙を読み、そのうちの2紙は英字新聞だった。その頃の私は「ニュースがわかればいい」くらいの気持ちで、東京のときから読んでいた新聞と地元紙だけだったが、今は何紙かに目を通す。そうすると、それまでの新聞では見えなかったことが見えて来る。
「新聞を何紙も読むなんて無理」と言う人には便利なサイトを紹介しよう。『MEDIA WATCH JAPAN』 (http://mediawatchjapan.com)は、様々な問題について、各新聞社(全国紙)のスタンスがどうなのかがひと目でわかり、社説も検索できる。テーマは『アベノミクス、原発政策、憲法96条改正、集団的自衛権、普天間基地移設』など7項目。例えば、「集団的自衛権の行使」については、賛成なのが読売、日経、産経、反対なのが、朝日、毎日の新聞だ。ちなみに信濃毎日新聞は、社説などから反対ということがわかる。

 ごり押しで成立させた「特定秘密保護法案」、憲法解釈について「最高責任者は私だ」と言い、戦争のできる国へと進もうとする安部首相。武器輸出もできる「武器新原則」で利益を生み出そうとする日本。その一方、一向に収束しない福島第一原発の汚染水。新聞からは、日本が危険な曲がり角に来ていることが見えて来る。
 尾崎行雄はヨーロッパを視察して戦争の悲惨さを見聞し、軍国主義の強かった日本で軍縮を唱えた人だった。軽井沢には文化人だけでなく、政治家にもリベラルな人たちがたくさんいた。雪香さんが生きていたら、今の日本の政治をどう思うだろうか。

広川小夜子(軽井沢新聞編集長)

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.21

軽井沢は再生エネルギー推進の町

ph_201405_01.jpg 春を告げるコブシの花
 軽井沢の人々にとって、今年ほど春到来を待ち望んだ年はなかったのではないだろうか。大雪の影響か、春を告げるコブシの花がなかなか咲かず、「春はいつ来るの」と待ち続けていた4月。そして遅咲きのコブシのおかげで桜との美しい紅白風景を眺めることができたGW(例年はコブシが散ってから桜が咲く)。軽井沢は今、若葉と野鳥のさえずりに、ようやくいつもの高原らしさを取り戻している。

 厳しく長い冬だったが、我が家の太陽光発電は一生懸命稼働し、なんと3月は197kWも発電してくれた(パネル24枚で3.144kW)。これは昨年7月や8月よりも多い。さすがに大雪に覆われた2月は24kWしか発電できなかったが、1年間の合計は1561kW、金額にすると65,720円。冬も雪氷に閉ざされていなければ、想像以上に発電する。年間を通して晴天が多い軽井沢は太陽光発電に向いているのだ。しかも、軽井沢町は最高40万円という県内一の補助金が出るので、取り付け費用は他の町より優遇されている。
「費用を取り戻すには何年もかかるでしょ」と友人は言うが、私が太陽光発電を取り付けたのは、金銭的な問題ではない。原発事故によって明らかになった問題点や恐ろしさを知り、原発に頼ることを少しでも減らしたいと思ったからだ。自分に何ができるかを考えて太陽光発電を決めた。

「再稼働しなければ電気代がさらに上がってしまう」と、思っている人も多いようだ。しかし、本当にそうだろうか。「総括原価方式」で何もかも電気料金に乗せるというやり方は一向に改められない。止っている原発の維持管理費まで使用電気料金に含むというのは、「使った分(買った分)を払う」という商売の基本からはずれている。「夏の電力が危機」という記事を目にするが、電力が足りないなら、なぜ政府や電気業界が節電を呼びかけないのだろうか。都市部の冬は暖房が効きすぎで暑く、夏は冷房が強すぎて寒い。なんと国会議事堂はライトアップまでされている。本当のところ、政府は電力不足云々ではなく、再稼働するための道筋をつけたいだけなのではないかと思う。
 その点、軽井沢町の取り組みは優れている。原発事故のあと、直ちに「再生可能エネルギー推進の町」を宣言し、昨年末には役場の駐車場に地熱利用の融雪設備を取り付けた。今年4月の議会では「木もれ陽の里」の屋根に215Wの太陽光発電パネル478枚を設置することが決まった。寒暖差を活かした温度差エネルギーやバイオマスなども検討されている。「自然との共生」をスローガンに掲げた軽井沢町の、さらなるエネルギー問題への取り組みに期待したい。

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.22

世界を一歩先に行く「日本国憲法」を作ったベアテさん

ph_201406_01.jpg ベアテ・シロタ・ゴードンの著書
『1945年のクリスマス』
 日本国憲法をめぐり、いま世論が渦巻いている。日本国憲法制定の際、軽井沢ゆかりの外国人女性が草案作成に力を注いだことをご存知だろうか。その人の名はベアテ・シロタ・ゴードン。ユダヤ人ピアニスト、レオ・シロタ・ゴードンの娘でウィーン生まれ。山田耕作の招きで東京音楽学校に赴任した父に伴い、5歳から15歳までの多感な時期を日本で過ごした。米国に留学した大学時代も夏休みは日本へ戻り、軽井沢の別荘で避暑生活を送っている。

 大学卒業後、ベアテは米国の戦争情報局やタイム誌で働き、その後、GHQ民生局のスタッフとして再来日。著書『1945年のクリスマス』は、帰国後、ベアテが懐かしさに胸がいっぱいになりながらも、焦土となった日本に衝撃を受けるところから始まっている。その時、両親は第三国人強制疎開地に認定された軽井沢に滞在していた。

 日本語が堪能で日本人の心を理解できるベアテは、GHQの民政局で憲法草案作成委員の一人として参加する。そのときベアテが力を注いだのは「日本女性の権利」。家のために結婚させられたり、売られたりする娘...、子供の頃から見てきた苦しむ女性たちの権利を守りたいという強い気持ちを日本の新憲法に盛り込んだ。
日本側は女性の権利条項の削除を求めたが、ベアテは入れることを強く主張した。こうして、当時、世界的にも一歩進んだ男女平等の理念が加わった憲法が誕生した。のちに美智子皇后はベアテについて「日本における女性の人権の尊重を新憲法に反映させた」とその功績を称えた。

 安倍首相や改憲派は「今の憲法はGHQの押しつけ」と言うが、そうだろうか。戦後初めての総理大臣に就任した幣原喜重郎はGHQに「憲法の自由主義化」を求められ、憲法の草案を作成した。しかし、その草案は国民を「臣民(天皇の忠実な部下)」と記し、国民の自由や権利が法律によって制限されるなど、明治憲法とほとんど変わらないものだった。このとき日本政府が作っていたら、とんでもない憲法ができていただろう。

 GHQはこの草案を知って呆れ「憲法のモデルになるものを作ろう」と作成に取り組む。7つの委員会が作られ、25人のメンバーが理想の憲法を作ろうと必死で取り組む様子は、ベアテの著書に詳しく書かれている。メンバーには憲法学者や弁護士、大学教授も揃い、皆、世界の憲法や日本について一生懸命学んだ。日本人のために、民主主義の理想の国を作ろうと、米国の憲法にさえ書かれていない進歩的な憲法を編み出したのだ。彼らの理想と努力から生まれたのが「主権在民」「戦争放棄」「基本的人権の尊重」等を掲げた日本の『平和憲法』だ。

 戦後平和な時代を築けたのはこの憲法があればこそ、ということを私たちは忘れてはいけない。

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.23

「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子と宣教師たち

ph_201407_01.jpg 花子とも交流があったハミルトン校長の別荘 (愛宕に現存)
グリンゲイブルスの家から少女が登場し、主題歌のメロディにのってクルクル回るように歩いて行く。そんな場面から始まるNHK朝のテレビ小説は『赤毛のアン』を翻訳した村岡花子の生涯を描いたドラマ。「2014年のテレビ小説が村岡花子の話になります。軽井沢関係の宣教師さんも登場するかもしれませんね」。2年前にそう言っていたのは軽井沢ナショナルトラスト理事のAさん。2010年に横浜で開かれた村岡恵理さん(村岡花子の孫)の講演会に行き、花子の生き方に興味を持った。そのとき恵里さんの著書『アンのゆりかご』を買って読み感動し、「これがテレビ小説になったら」ともう1冊買ってNHKに送った。NHKからは本が届いたことと「検討します」という返事はあったが、その後どうなったか特に連絡はなかったので、新聞で発表を見てAさんは驚いたという。もしかしたら、このときの1冊が脚本家の目に留まったのかもしれない。
 安東はな(村岡花子)に大きな影響を与えた一人として、ブラックバーンなる人物が登場する。威厳を感じさせる校長先生で生徒を叱るとき「Go to bed!」と怒鳴るのだが、瞳の奥は優しく慈愛に満ちている。実在の人物はブラックモアといい、旧軽井沢のヴォーリズレーン近くに別荘があった。のちに宣教師メジャーの別荘となり2、3年前までは残っていたが、所有者が変わり売却のため壊された。私は10年ほど前に見学したことがあるが、新渡戸稲造の自筆の書が飾ってある古い暖炉が印象に残っている。  ドラマに出てくる女学校のモデルは東洋英和女学院、花子の出身校だ。東洋英和女学院と軽井沢は宣教師を通してつながりがある。愛宕山別荘地の知人が気に入って購入した古い別荘も、調べてみたら東洋英和女学院ハミルトン校長の所有だったことが分かった。「ハミルトン先生の別荘が軽井沢に残っていたなんて!」と東洋英和女学院の関係者は驚いて見学にやって来た。  当時の宣教師たちは夏休みを軽井沢で過ごしていた。宣教師たちの力で発展した軽井沢は「清潔で健康なリゾート」を守り続け、今も深夜営業や風俗営業が禁止されている。軽井沢の歴史を知らない人たちからは、コンビニや飲食店が夜11時で閉店するのが不満という声も聞こえてくる。しかし、これは軽井沢の伝統であり誇りでもあるのだ。ブラックモア校長が花子に大切なことを厳しく教えたように、新たに訪れる人たちに伝えていかなければいけない。8月1日には『軽井沢ショー祭』が行われる。A.C.ショー始め先人たちを顕彰するこの記念式典は、軽井沢の原点を見つめる良い機会でもある。縁あって軽井沢に暮らすようになった人達には、ぜひ参加してほしいと思う。

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.24

いつの時代も「平和」を考える場所

ph_201408_01.jpg 左端:鳩山一郎、中央:近衞文麿
ここに1 枚の写真がある。戦争が激しさを増す昭和18年8月、伊東治正(伯爵、新聞記者)の軽井沢の別荘(翠雨荘)に政治家たちが集った「軽井沢会談」である。軍部が勢力を持つこの頃、政治家たちは憲兵に悟られないように庭から庭へと歩いて翠雨荘に集まり、和平への道を話し合った。戦火の時代も軽井沢は「平和」を考える場所だったのだ。

 7月のある日、テレビで「『集団的自衛権』を知っていますか?」という調査を行っていた。10代、20代の8割近くが「よくわからない」と答えている。新聞やテレビであれだけ話題となったのに、無関心の若者が多いようだ。実際、私の周りでも政治の話をしている若い人をほとんど見かけない。
 軽井沢のレストランで働く20代後半の女性。「集団的自衛権って、海外に行って戦争するようになるらしいけど、自衛隊のことでしょ」自分たちには関係ないと言う。佐久地方の病院で働く22歳の看護師(男性)。「集団的自衛権?新聞もテレビも見ないのでよくわからない」。ちょうど持っていた新聞の見出しに「戦争のできる国へ」と大きく書いてあり、元自民党幹部の議員が「自衛隊に入る人 が減り、いずれは徴兵制になる」と話している記事が載っていたので、それを見せると表情が変わった。「いやだよ。戦争になんか行きたくない!」。若者たちも自分の身に降りかかることとなれば、真剣に考えるようだ。
 若者ばかりでなく多くの国民の間で議論が深まらないうちに、憲法解釈を変更し集団的自衛権を使えるようにした安部内閣のやり方に対して、地方の新聞は厳しい目を向けている。7月9日付の朝日新聞によれば「地方紙の40紙が反対、賛成はわずか3紙」。東京新聞は「自公だけの『密室』協議で『解釈改憲』の技法だけの話し合い」と批判。信濃毎日新聞は3月から7月30日現在までの間に「安保をただす」と題した社説を40回以上掲載し「政権が思うまま解釈変更するのでは憲法の意味がない」と述べた。
 地方の声は新聞だけにとどまらない。長野県内では46市町村議会と県議会が、解釈変更の反対や、慎重な対応を求める意見書を可決した。共同通信社の全国調査では「解釈変更不十分」と答えた人が82%にのぼり、行使容認への反対は半数を超えている。では、佐久市や小布施町など46議会が意見書を可決している中で、軽井沢町の議会はどうだったのか。『議会だより』を見ても、議会としての意見書を出すという話は全く持ち上がっていない。町民の声をすくいあげる一番身近なところにある町議会がこれでは...とがっかりした。国が行うことにこれだけ多くの人が納得していないという事実をしっかり認識し、町民の代表として政府へ意見を述べる勇気を持ってもらいたいと思う。軽井沢は平和を考える場なのだから。

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.25

"安心して暮らせる別荘地"が基本

ph_201409_01.jpg 木々を伐採し、急斜面を開発した別荘地
60年前から旧軽井沢の別荘で、毎夏過ごしているSさん。2011年のある日、長野県砂防課から「土砂災害警戒区域」説明会の連絡を受けて驚いた。「緑に囲まれ、小鳥のさえずりを聞きながら過ごす、快適なこの別荘地が危険区域だとは!」。しかし、言われてみれば、近くの緑の丘は削られ、いつの間にか、むき出しの斜面にモダンな別荘がたくさん出来ている。「もし、大雨になってあそこが崩れたら、この家はひとたまりもない」
 この夏、日本列島は集中豪雨による被害に見舞われ、8月20日、広島県では大規模な土砂災害で70人以上が亡くなった。急傾斜地の土砂災害の危険は、山や丘陵を切り開き分譲してきた場所も多い軽井沢では、人ごととは言えない。
 2003年に、長野県は「土砂災害危険箇所の分布状況地図」を発表している。軽井沢別荘団体連合会では、急傾斜地の樹木を伐採し見晴らしを良くして販売しようとする業者があとを絶たないため、「急斜面の樹木を根こそぎ伐採すると危険」というチラシを作り、裏面にこの地図を入れた。土石流やがけ崩れの生じる危険な地域が記されているため、反響も大きかった。 
 県砂防課は旧軽井沢の調査が終了した2011年、東京と軽井沢で土地所有者への説明会を開いた。東京では約100名、軽井沢では約70名が参加。どちらの会場でも「歴史ある別荘の資産価値が失われる」「目視だけで指定するのはおかしい」など、多くの参加者が指定に反対して会場は大混乱になった。前述のSさんはこの説明会で、自分の別荘の危険度を初めて認識した。開発によっていつの間にか危険になっていく場所というのは意外と多い。自分たちがそうしたわけでなく、無謀な開発によって危険になるだけに、気づいたときにはどうしようもない状態になっている。土砂災害警戒区域に指定されると、開発は規制される。このとき旧軽井沢だけでも指定されるはずだったが、結局、延期になった。その理由が「不公平のないよう軽井沢全域の調査が終了してから」だという。これがなぜ理由になるのか、理解に苦しむ。いったい、誰に対して不公平なのか?本来、行政の立場なら、危険な場所での開発を1日も早く止めさせるべきだろう。まさか、「指定を遅らせるから、その間に開発して売却を」というわけではあるまい。
「歴史ある別荘地の資産価値が失われる」と心配する人も多かったが、大災害になり人命が失われては、「歴史ある別荘地」も「資産価値」も吹っ飛んでしまう。前号の軽井沢新聞に掲載したように、県は軽井沢全域の基礎調査を今年度中には終え、イエローゾーン(土砂災害警戒区域)とレッドゾーン(土砂災害特別警戒区域)を指定すると述べた。土砂災害の危険性は広島の犠牲で多くの人が理解したはずだ。今回は確実に指定し、町も「警戒避難体制の整備」を迅速に進めてもらいたいものである。

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.26

失われた緑を取り戻す企業

ph_201410_01.jpg緑に囲まれた"軽井沢チョコレートファクトリー"

ph_201410_02.jpg銀座通りで緑が目立つ"チャーチストリート軽井沢"
 緑の軽井沢の美しさを積極的に店舗にも取り入れようという動きが見えてきた。国道18号線沿いにある"チョコレートファクトリー"がいつの間にか緑に包まれた館になっている。元々コンビニだった建物を利用したものなので、周りに殺風景な駐車場があるだけだったが、今はその面影がないくらい木々に囲まれている。「自然豊かな軽井沢を感じてほしいという会社の方針でたくさん木を植えました。国道が丸見えだったテラスが、今は緑に囲まれてくつろげるようになりました」と店長。以前は雨の日の来店客が多かったが、今は晴れた日も増えたそうだ。
 旧軽銀座通りを歩くと"チャーチストリート"の大きな木が見えてくる。3年前からこのビルのオーナーとなった大城さんは、緑豊かな軽井沢らしい場所にしたいと思っていた。そんなある日、表参道のビルの屋上に大木が何本も植えられて森のようになっていることを知った。これは誰が造ったのかと尋ねると、軽井沢にいる女性が考えたというので驚いた。さっそく軽井沢へ戻り、その女性・鈴木美津子さんに会い相談したところ、「旧軽銀座には木陰がなく訪れる人たちがきのどく」と思っていた鈴木さんは「協力しましょう」と即答した。しかし、森にするには時間が必要。この夏は間に合わせだったが、高木や中低木、野の花のプランター70個がビルを彩った。通る人が「あ、ホタルブクロ」と声をあげ、写真を撮って行く姿も見られるようになった。テナントの従業員たちも進んで野の花に水をやっている。「来てくださった方に最も軽井沢らしい雰囲気を味わっていただきたい」とマネージャーの西山さんは力を込める。
 軽井沢はここ十数年の間に急激に緑が減少した。民間企業に頼るばかりでなく行政がすぐにでも対策を講じるべきだ。「緑ゆたかな高原の自然を愛しまもりましょう(軽井沢町民憲章)」「軽井沢の伝統とすぐれた自然を保全する」(平成25年軽井沢町長期基本計画)と、町役場は大々的に掲げている。3万坪の森の木を切って2万枚の太陽光発電パネルを設置するという南軽井沢の計画が現在、問題になっている。メガソーラーのために3万坪の緑を失うことは本来の軽井沢の爽やかさを失うことだ。町民憲章や振興計画ではっきりと謳っている以上、まさか、役場がこれを認めることはないと思うが。もし、これを認めてしまったら次々と同じような計画が出て、軽井沢本来の役割とはかけ離れた場所になってしまうことだろう。

Kaleidoscope 軽井沢が見える万華鏡 No.27

2015年、どうなる日本、そして軽井沢は...

ph_201412_01.jpg 軽井沢町役場の玄関前には『軽井沢町民憲章』の碑が置かれている。
 TVドラマや舞台化もされ人気を集めた村上もとか原作の「JIN-仁」の中で、タイムスリップして江戸末期にやって来た主人公・南方仁に勝海舟が「未来の日本はどうなんだ?」と尋ねる場面がある。仁が「平和で争いのない穏やかな国になっている」と答えると、勝は「よかった」とうなずく。戦(いくさ)の続く歴史を経て平和になった日本を大切にしなければいけないと思わせるシーンだ。軽井沢新聞のこの号が発行されるときには衆議院選挙は終わっている。今回の選挙は「経済政策を問う」のではなく「日本の未来を考える」を優先順位とする選挙であってほしかった。「平和な日々」がお金より大切だということは、3・11や原発事故で日本人は身にしみて分かっているはずだ。  軽井沢のことに話題を変えよう。発地のメガソーラー計画に関して、10月号のコラムで「自ら軽井沢町民憲章で『緑ゆたかな高原の自然を愛し守りましょう』と謳っている軽井沢町が、まさかこれを認めることはないと思うが」と書いたのだが、自然保護審議会と町長はこの計画を事実上許可した。
これには多くの住民ががっかりし、先月号のアンケートでも「納得できない」人が73%を占めた。『発地メガソーラー計画を考える会』は「町長と審議会だけで決めるのではなく、町民代表の町議会議員にも議論してほしい」と町議会へ陳情書を出し、有志で集めた設置反対の署名を町長へ提出した。この様子をNHKや信越放送、信濃毎日新聞などマスコミが報道し話題となった。  ここで注目したいことがある。太陽光発電を認める理由に町があげるのは2011年に「軽井沢町は再生可能エネルギー推進の町として議会で決めたから」だという。しかし、その頃と現在とでは状況が変わっている。太陽光発電施設は2014年6月末までに原発70基分の7178万KWが既に国に認可されている(経済産業省・資源エネルギー庁発表)ということを町や同審議会は知らないのだろうか(10月24日付信濃毎日新聞『社説』にも掲載されている)。太陽光発電施設の数はこれで充分満たされている(送電線の問題で稼働は15%)。何も軽井沢のような歴史あるリゾート地が自然を損なってまで設置することはない。軽井沢町が「再生可能エネルギー推進の町」というなら、現状を踏まえた上で、送電線や蓄電の研究を推進するよう政府に進言すべきだ。県議会再生可能エネルギー普及促進議員連盟では既に進言や要望を行っている。 『軽井沢が見える万華鏡』は今回で終了します。

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