Kaleidoscope

軽井沢が見える万華鏡 №9

 軽井沢を避暑地として見いだした宣教師A.C.ショーが軽井沢を通り過ぎたのは偶然だったのでしょうか。以前は、布教途中に偶然通ったと思われていましたが、近年、そうではないという見方が強まっています。これには、1881年英国で刊行された英国人アーネスト・サトウ著の『明治日本旅行案内』が、1996年に全3巻翻訳出版されたことが影響しているようです。

 アーネスト・サトウは碓氷峠を越える新道を通って軽井沢入りしました。「海抜3270フィートという高地に位置しているので夏期は大変涼しく、さらに蚊がいないことも平野部の不快な暑熱を避ける場所として推薦できるもう一つの理由だ」と、既に避暑地として最適であることを推奨しています。注釈にはショーもディクソンもこの案内書を参考に軽井沢にやって来たということが記されています。

 明治の軽井沢を書いた興味深い本がもう一冊。1889年に英国で出版されたメアリー・フレイザーの『外交官の妻の日本滞在―故郷から故郷への手紙』には、美しい軽井沢の風景が描写されています。「そして今、私は世界でもっともすばらしい書斎で書いています。頭上にはカラマツの枝が快い緑のアーチをつくっています。(略)足の下には百層にもなるカラマツの葉が敷物を織りなしています」メアリー・フレイザーが滞在した英国公使別荘は二手橋を渡ったすぐ左側にありました。そこには、メアリーが記した快い緑のアーチを想像できる大木が今も残っています。

 最近、軽井沢では「モミ、カラマツは人工的に植えたもので、昔は草原。木々は広葉樹だった」という風潮が広がり、針葉樹は切られる傾向にあります。しかし実は、昔から天然のモミ・カラマツがたくさんあったこと、そして避暑地の心地良さをつくっていたことがこうした書物からわかるのです。書物だけではなく、地図や写真などからもうかがい知ることができます。中島松樹氏所有の明治30年の絵図には、ユニオンチャーチ周辺、チャッペル別荘周辺、セール別荘周辺などにたくさんの木々が描かれています。また、万平ホテル付近から遠くを写した明治30年頃の写真には、黒い三角形の樹木がたくさん映し出され、それが針葉樹であることは一目でわかります。軽井沢の歴史の中でモミやカラマツが愛され、美しい風景をつくってきたことをもっと考えるべきではないでしょうか。

(広川小夜子 軽井沢新聞編集長)

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