世界を一歩先に行く「日本国憲法」を作ったベアテさん

軽井沢が見える万華鏡 №22

ph_201406_01.jpg ベアテ・シロタ・ゴードンの著書
『1945年のクリスマス』
 日本国憲法をめぐり、いま世論が渦巻いている。日本国憲法制定の際、軽井沢ゆかりの外国人女性が草案作成に力を注いだことをご存知だろうか。その人の名はベアテ・シロタ・ゴードン。ユダヤ人ピアニスト、レオ・シロタ・ゴードンの娘でウィーン生まれ。山田耕作の招きで東京音楽学校に赴任した父に伴い、5歳から15歳までの多感な時期を日本で過ごした。米国に留学した大学時代も夏休みは日本へ戻り、軽井沢の別荘で避暑生活を送っている。

 大学卒業後、ベアテは米国の戦争情報局やタイム誌で働き、その後、GHQ民生局のスタッフとして再来日。著書『1945年のクリスマス』は、帰国後、ベアテが懐かしさに胸がいっぱいになりながらも、焦土となった日本に衝撃を受けるところから始まっている。その時、両親は第三国人強制疎開地に認定された軽井沢に滞在していた。

 日本語が堪能で日本人の心を理解できるベアテは、GHQの民政局で憲法草案作成委員の一人として参加する。そのときベアテが力を注いだのは「日本女性の権利」。家のために結婚させられたり、売られたりする娘...、子供の頃から見てきた苦しむ女性たちの権利を守りたいという強い気持ちを日本の新憲法に盛り込んだ。
日本側は女性の権利条項の削除を求めたが、ベアテは入れることを強く主張した。こうして、当時、世界的にも一歩進んだ男女平等の理念が加わった憲法が誕生した。のちに美智子皇后はベアテについて「日本における女性の人権の尊重を新憲法に反映させた」とその功績を称えた。

 安倍首相や改憲派は「今の憲法はGHQの押しつけ」と言うが、そうだろうか。戦後初めての総理大臣に就任した幣原喜重郎はGHQに「憲法の自由主義化」を求められ、憲法の草案を作成した。しかし、その草案は国民を「臣民(天皇の忠実な部下)」と記し、国民の自由や権利が法律によって制限されるなど、明治憲法とほとんど変わらないものだった。このとき日本政府が作っていたら、とんでもない憲法ができていただろう。

 GHQはこの草案を知って呆れ「憲法のモデルになるものを作ろう」と作成に取り組む。7つの委員会が作られ、25人のメンバーが理想の憲法を作ろうと必死で取り組む様子は、ベアテの著書に詳しく書かれている。メンバーには憲法学者や弁護士、大学教授も揃い、皆、世界の憲法や日本について一生懸命学んだ。日本人のために、民主主義の理想の国を作ろうと、米国の憲法にさえ書かれていない進歩的な憲法を編み出したのだ。彼らの理想と努力から生まれたのが「主権在民」「戦争放棄」「基本的人権の尊重」等を掲げた日本の『平和憲法』だ。

 戦後平和な時代を築けたのはこの憲法があればこそ、ということを私たちは忘れてはいけない。

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