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堀辰雄文学記念館の前に、なぜ本陣の門が?

P1030477.JPG 堀辰雄文学記念館の入口。ここにある追分宿本陣の門は裏門。
表門は今も探しているが見つかっていない。
 毎年多くの文学ファンが訪れる「堀辰雄文学記念館」。訪れるたび、入口にある大きな門を見上げて思う。「なぜ、ここに本陣の門が?」
堀辰雄とこの門の関係は...
 信濃追分にあるこの場所には、作家の堀辰雄が晩年48歳で亡くなるまで過ごしていた。多恵子夫人が軽井沢町に寄贈したもので、町は堀辰雄の家や書庫をそのまま見学できるように残し、入口近くに展示館等を建築した。軽井沢文学を代表する作家・堀辰雄を紹介するこの文学記念館には年間約1万人が訪れ、信濃追分の名所になっている。
 入口にある本陣の門はなぜ、ここに建っているのだろうか。説明板には、この門の由来が記されている。それによると、この門は中山道でも大きな宿の一つであった追分宿本陣の裏門であり、御代田町にあったものを移築したのだという。当時から追分在住の町議会議員で、移築に至った経緯に詳しい内堀次雄さん(現・町議会議長)に話を伺った。

長年探して、ようやく見つけた歴史的な門
 内堀さんの説明を要約すると、次のようになる。
 追分宿の歴史を調べている人たちは、本陣の門が御代田町の塩野地区にあるらしいと聞き、ずっと探していた。西部小学校に塩野の教諭がいることを知り、その門について尋ねると、「それなら私の家にありますよ」と言う。その家は100年の間、大切に門を守ってきたので親戚にも相談し、「軽井沢町にとって歴史的な大切なものなら寄付しましょう」と移築することを了承した。
 移築はとんとん拍子に進むものと思われたが、難しい状況になった。追分の人たちは本陣の跡地に置くものと思っていたが、本陣の土地の所有者は様々な事情があり断った。「中山道の見える所に置いて、まちづくりのシンボリックなものにしたい」という地元の意見に対して、教育委員会は「門をくぐってもその先に何もないのはどうか」と意見が分かれ、なかなか場所は決まらなかった。
 そこで白羽の矢が立ったのが「堀辰雄文学記念館」だった。「中山道に面している」「地元の人も観光客も目に留まる」「町の土地である」ということが理由だった。夫人の多恵子さんから反対の声はあがらなかったという。こうして平成17年、本陣の門が堀辰雄文学記念館の入口に移築された。移築の費用は約1700万円であった。

ガイドブックから消えた記念館の入口の写真
 この門ができる前までは、ガイドブックに載っていた入口の写真。看板と共に堀辰雄が愛したカラマツ並木や浅間石の門柱が写っていたが、今はほとんどのガイドブックに載らなくなってしまった。弊社の場合も、堀辰雄とは関係のない門が写ってしまうから、これを避けて館内や庭の写真を使っている。同館長の話では、見学者から堀辰雄とどのような関係がある門なのかと聞かれることも多いという。当時の教育長・井出和年さんは「堀辰雄と関係ないと言えば確かにそうだが、あの場所なら門をくぐって行ける。あの場所以外に門を置く場所はありません。最終的に場所は教育委員会と追分の人たちで協議して決めました」と話す。
 堀多恵子さんと親しかった大久保保さん(軽井沢ナショナルトラスト会長)は、「堀さんは、町が記念館を運営しているということがあるからはっきり言えなかったけど、本当は嫌がっていました」。実際、筆者(広川)も多恵子さんから、堀と関係ない門なのであの場所に建ててほしくなかったという声を聞いている。
 追分の別荘で40年以上暮らす南沢直子さんは「文学と関係なく、歴史的なものなら追分宿郷土館の所にあるほうがふさわしいのでは」と首を傾げる。
 前述の内堀次雄さんは「あっちもダメ、こっちもダメとなると、これ以上、場所が決まらないなら移築するのは止めよう、となるのではないかという不安があった」。とにかく、追分に戻したいという強い気持ちだったと当時を振り返る。「あのとき、多恵子夫人の本心に気づかなければいけなかった。今は記念館の入口にあるけれど、いずれは別の場所に移したほうがいいのかもしれない」と内堀さん。
 当時の町長・佐藤雅義さんに、取材した内容を伝えると、「堀さんが嫌がっていたことは知らなかった」と驚いた様子で、「移築したほうがいいという声もありますが」という意見には「そうだね」とうなずいた。
 軽井沢の作家を代表する堀辰雄の文学記念館に、文学と何の関係もない門を置くことが、本当に信濃追分にとって良いことなのかどうか、考えてみることが必要な時期なのかもしれない。

Kaleidoscope No.33

雨や風の音と共に楽しむ音楽会

P1030487.JPG Ohaio Chrisutian Univercity Circleville OH.
 8月中旬の旧軽井沢銀座はまるで縁日のようだった。人混みを抜けて駐車場へ戻ろうとすると、ユニオンチャーチから美しいメロディが聞こえて来た。「ご自由にお入りください」と書いてあり、金髪の宣教師がパンフレットを配っていた。米国オハイオ州から訪れ、毎年ここで演奏しているグループだという。
 中に入ると、数人の外国人がヴァイオリンやチェロを手にクラシック音楽を演奏していた。ステージの後ろには窓があり、緑の枝が揺れるのが客席から見える。木造りの素朴な教会の空間に美しい旋律が広がっていく。銀座通りの雑踏に辟易していただけに、心和む気持ちになってホッとした。
 それから数日後、私はこの教会の演奏会に再び訪れた。今年で15周年を迎える『軽井沢国際音楽祭』のコンサートを聴くためだった。この音楽祭で驚くことは、15年間続けて来たこともそうだが、8月中旬から9月上旬にかけて軽井沢の各所でコンサートを行っていることだ。大賀ホールはもちろん、美術館や教会、ホテルのロビーのほかハルニレテラスのような街角でも演奏する。生前、大賀典雄さんがよく話していた「街を歩くと音楽が聞こえて来る軽井沢」を実践しているのだ。
 夕方6時から「たそがれ時のコンサート」と題して、ギターとヴァイオリンの演奏が行われた。第1部の演奏が終わると、突然、雨が降り始めた。「雨の音が大きいため、演奏の順序を変更します」とアナウンスがあり、力強い演奏の曲を先にして、繊細な音楽を後にすることを告げた。「雨や風の自然の音も一緒にお楽しみください」と司会者。立派な音楽ホールなら、外の音が聞こえることはないが、この古い教会だからこそ「自然の鼓動と共に感じる音楽」を楽しめるのだ。いかにも軽井沢らしいシチュエーションではないか。大正時代に設計したW.M.ヴォーリズは、そこまで計算していたのだろうか。ピアソラのタンゴを聴く頃には雨は止み、ギターで演奏する武満徹の繊細な曲はしっかり会場に響き渡った。
 この夏も軽井沢では多彩にイベントが開催された。新渡戸稲造が開校した歴史ある夏期大学をはじめ、様々なジャンルのコンサート、古典芸能、講演会、朗読会、美術展等etc...。文化的なイメージがある軽井沢だからこそ、毎年、質の高いイベントがたくさん行われる。軽井沢に暮らすことで、この恩恵を受けられることに感謝しつつ、軽井沢の文化的なイメージがいつまでも続くことを祈りたい。

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