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スイス公使の日記も初公開 旧スイス公使館「深山荘」の謎に迫るシンポジウム

2015年08月27日 16:02

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 第二次世界大戦中にスイス公使館が疎開していた旧軽井沢の「深山荘」の歴史的意義や役割について探る公開シンポジウムが8月22日、軽井沢町中央公民館で開かれた。同日の旧スイス公使館の現地見学会に続き軽井沢町と筑波大学が主催し、約250人が受講した。

 1940年から45年までスイス公使を務めたカミーユ・ゴルジェ氏の日記を研究する、フライブルク大学(スイス)のクロード・ハウザー教授(近現代史)や、ゴルジェ氏らが戦中に本国の外務省などへ送った電報の解読を進める筑波大学の花里俊廣教授(建築計画学)ら6人の研究者らが講演した。

 ゴルジェ公使の日記は、日本滞在中の回顧録や公式報告書、書簡などから情報を再構築し1953年頃に書いたもの。軽井沢での日常生活や直面した課題など、個人的な体験に基づいて書いている。
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 ハウザー教授によると、軽井沢への疎開が決まった1944年6月の日記には、「寒い時期に、暖房もなく木と紙でできた家で住むことができるだろうか」と不安を綴り、疎開後の同年8月1日には、スイスナショナルデーに合わせて公使の家で開いたパーティーに、軽井沢に滞在しているスイス人を集め、ケーキやチョコレートを振る舞ったことを記載。「食料は不足しているが、皆志気は高い」と記されている。

 1945年6月3日には、「住宅の隣りで労働者が穴掘り作業をしている。皇太后が避難するための地下壕を掘っているようだ」。同年7月20日には、「庭に壕を掘る作業は終わったようだ。灯りがつき、中には家具も揃い、二人の兵士が日夜入口を守っている。皇太后はもうそこにいるのかもしれないし、いないかもしれない。知りたくもない」と綴った。

 また、ハウザー教授は、「終戦日の8月15日の日記に、ゴルジェはほっとしたという感情と、日本兵による報復に対する不安の両方を表している。日本の降伏による終戦を、ゴルジェは当事者というより傍観者の立場でみている。憲兵の強い監視下にあり、本当の意味で終戦に向けた調停役を果たせなかったのでは」と話した。

 花里教授はゴルジェ公使らが本国の外務省などに送った電報の中に、フランス語で「軽井沢を爆撃しないでほしい」という意味の「イミュニテ カルイザワ」と記した文言があると指摘。文言は、1945年6月8日から7月30日に宛てた電報のうち19通に見られるという。
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 花里教授は「軽井沢が貞明皇太后の疎開先として名前が挙がっていたことから軽井沢を爆撃対象から除外してほしいという意味も考えられるが、『イミュニテ カルイザワ』が『国体護持(天皇制維持)』の符号で、スイスが講話条件などを探っていた可能性もある」と、見解を示した。

(写真は中央右:クロード・ハウザー教授、左下:花里俊廣教授)

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小学校の体育館に本物の文楽が登場

2015年08月25日 16:14

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 日本の伝統文化でユネスコ無形文化遺産にも登録されている人形浄瑠璃文楽の公演が、8月24日、軽井沢中部小学校で行われた。体育館に集まった5・6年生の生徒らが「三番叟(さんばそう)」や「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」などを鑑賞した。

 番組の合間には人形の体験コーナーなどもあり、生徒たちは積極的に壇上に上がって、人形同士の立ち回りなどを演じた。長野文楽公演実行委員会の福島さんは「昨年の御代田に続き、今年は軽井沢の中部小学校と佐久市で開催します。毎年続けていくことが大切だと思っています。本物の日本文化を体験する機会をこれからも続けていきたい」と話した。

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初開催の旧スイス公使館見学会、400人来場

2015年08月24日 16:08

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 軽井沢町と筑波大学は8月22日、戦時中にスイス公使館として使われた旧軽井沢の「深山荘」の見学会を開いた。町が2007年に取得してから初めての開催。約400人が来場し、用意したパンフレットがなくなるなど関心の高さを窺わせた。

「深山荘」は三笠地区で数十軒の貸別荘を営んでいた実業家の前田栄次郎が、1942年に建設したアパートスタイルの貸別荘。戦時中の1944年、軽井沢が外国人の疎開地に指定されると、スイス公使館が使用。戦後は1967年から2006年まで東京電機大学の学生寮として使われていた。

 建物は敷地面積2100㎡、延床面積485㎡の一部2階建て。一階に厨房やボイラー室、使用人の部屋、2階中央八角形のホールの両脇に宿泊者用の部屋(ベランダ付き8畳の洋間5室、6畳洋間5室、6畳日本間5室)がある。
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 見学会では、軽井沢ナショナルトラスト会長の大久保保さんと会員の木下裕章さんが、建物の特徴やスイス公使館の果たした役割などを説明。大久保さんは「スイス公使館は、疎開した他国の大公使館の窓口となり、食料や燃料の確保に努めた。三笠ホテルに置かれた外務省軽井沢事務所とも連絡をとり、戦時中も国際親善の役割を果たした」。木下さんは建物について「中央と南側の2カ所に階段があり、宿泊客と使用人のスペースがはっきり分かれているのが見るとわかる」などと話した。

 横浜市から訪れた60代の男性は「ずっと中を見たいと思っていた。豪華な作りを想像していたが、規格化された質素な作りで驚いた」と述べた。この日はスイス公使館の果たした役割を探るシンポジウムも、町中央公民館で開かれた。

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男子柔道個人戦長野県大会優勝の曽根敬次郎さん、全国へ意気込み

2015年08月12日 10:56

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 長野県中学総体(7/18〜19・長野市)の男子柔道個人戦50kg級で優勝した軽井沢中学2年の曽根敬次郎さんが8月12日、軽井沢町役場に藤巻進町長を訪ね、全国大会(8/17〜20・函館市)へ向け意気込みを語った。軽井沢中学では3年生以外が全国中学柔道に出場するのは初めて。

 曽根さんは父や姉が柔道をしていた影響もあり、小学校1年から柔道を始めた。現在は中学の柔道部に所属し、一日2時間、週5日の練習を行っている。得意技は背負い投げ。「先輩や仲間の分まで、一つでも多く勝てるように頑張りたい。目標はベスト8」。町長は「相手も真剣勝負で来るから簡単ではない。絶対ベスト8に入る、という強い思いを持って頑張って」と激励した。

<写真:軽井沢中学田中寿一校長らと町長を表敬訪問した曽根敬次郎さん(中央)>

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パリスタイルを参考にした オペラと食の融合

2015年08月11日 14:03

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 東雲交差点にあるワインバーRUBATOで、オペラを間近に味わえるイベント「Opera &wine」が開催されている。パリやロンドンで話題のレストラン「ベルカント」を訪れた軽井沢に別荘のある日本人女性が「音楽を楽しむ感動を日本でも伝えたい」と企画を考案した。ベルカントはレストランで食事をしながら、プロの若手オペラ歌手たちによるオペラのナンバーを味わうというスタイルで、ヨーロッパで人気となっている。軽井沢でのイベントでも、ソプラノ、アルト、テノール、バリトンの4人の若手オペラ歌手たちが情感あふれる歌唱を披露。サプライズの演出などもあり、訪れた観客たちからは歓声が上がっていた。Opera&wineは12日まで開催中。
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別荘住民と町民の懇親図る「さわやか軽井沢交流会」、元国連事務次長明石康さん講演

2015年08月08日 15:16

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 軽井沢町は8月8日、別荘住民と町民が親睦を図る「さわやか軽井沢交流会」を通年型のカーリング場「軽井沢アイスパーク」で開いた。4回目の今年は、国連事務次長を18年間務めた明石康さんの講演などがあり、677人が来場した。

 13年ほど前から別荘を持ち、軽井沢を訪れるようになったという明石さんは「これからの軽井沢の役割と可能性」をテーマに講演。「非科学的な観察だが、軽井沢の空気は酸素が多いような気がします。夜は安眠ができるし、読書のスピードも軽井沢では一段と増す」。

 また、軽井沢町が「リゾート会議都市」を目指していることに触れ、「東京、横浜、大阪、神戸などのような大型の会議都市ではなく、200〜300人規模の専門性の高い対話型、滞在型の国際会議を企画し実施するのがこの街にぴったりではないか」と提案した。

 さらに「日本人は発信力よりも受信力を高めるべき。鋭敏なアンテナで世界の人たちが何を考え、心配し、夢見ているのか受信し、世界の人と交わるべき。その交流の場として軽井沢は大きな役割を果たしうると思う」と続けた。
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 交流会では、軽井沢中部小学校吹奏楽部の演奏やカーリングの無料体験なども開催。屋外のスケートリンクでは軽井沢産の野菜を使ったサラダやトウモロコシ、蕎麦などが振る舞われた。「D51トレイン」も走り、子どもらが乗って楽しんでいた。一年に一回ほど、軽井沢の別荘を訪れるという東京都の辻聖一さんは母と妻と3人で初めて参加。「お蕎麦も美味しかったし、大人げなくデコイチにも乗った。存分に楽しみました」と話した。

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16回目も晴天に恵まれ 『軽井沢ショー祭』厳かに開催

2015年08月03日 09:20

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 軽井沢を避暑地として見出した宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーはじめ、今日の軽井沢を築いた先人たちを称え、その原点を未来へ伝えようという町民祭『軽井沢ショー祭』が8月1日に開催された。16年前から式典中は1度も雨に降られたことがないというこの祭典、16回目となるこの日も晴天に恵まれた。

 会場は緑の木々に囲まれたショー記念礼拝堂の前庭。鐘の音が響くと日本聖公会の土井司祭によって開会の挨拶。中部教区代表の渋沢司祭は、ショー記念礼拝堂が今年120周年を迎えることや、正面の十字架は建立当時のままであること等を紹介した。

 実行委員長の大久保保さんは、野沢源次郎が大正期の草原にマーケット・プールなど総合的に別荘ライフを考慮した別荘地開発を行ってから100周年となったことを話し、先人たちの功績を称えた。

 ショー祭立ち上げのときから実行委員として関わってきた藤巻進軽井沢町長は「清々しく軽井沢らしい祭典になっている」と喜びの声を伝え、「軽井沢の歴史にとって、このショー祭が意味のあるものになることを期待する」と述べた。
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 式典後のアフタヌーン・トークでは、「カナダ・メソジスト教会宣教師と軽井沢」と題し、東洋英和女学院資料室嘱託の酒井ふみよさんが、軽井沢で過ごした女性宣教師たちについて講演した。昨年のNHK朝のテレビ小説「花子とアン」で知られたブラック・バーンことブラック・モアはじめ、多くの宣教師たちが軽井沢に訪れ、別荘を建てたという足跡が残っている。酒井さんは「彼女たちはこの土地を愛し、心も体も休息できた。新しい出会いがあり交流があった。軽井沢を愛する人にはぜひ、軽井沢独特の歴史の側面を知ってほしい」と語った。

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