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軽井沢新聞 スペシャル
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堀辰雄夫人・随筆家 堀多恵子 さん

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ほりたえこ (1913−2010)
静岡県生まれ。生後3ヵ月〜10歳まで香港、広東で過ごす。東京女子大を卒業後、信濃追分で堀辰雄と出会い、1938年に結婚。昭和19年に信濃追分へ疎開し、病に伏せた堀辰雄の看病を続ける。堀辰雄死去後、エッセイストとして活躍。1985年〜2010年軽井沢高原文庫の顧問・のち理事を務める。主な著書に「来し方の記」「山麓の四季」等、著書多数。
1809_special_deatta02.jpg 辰雄を看病した追分の自宅。
 昭和56年、『軽井沢ヴィネット』の特集の取材で堀辰雄夫人の堀多恵子さんにお会いした。

 多恵子さんが堀辰雄と出会ったのは昭和12年。ヴィネット54号でその時の印象について語っている。「9歳も離れていましたから、結婚の対象としては考えていなかったんですよ。『風立ちぬ』の作者として名前は知っていました。色々な話を聞けるのが楽しかったですね」

 昭和19年、疎開のため追分へ引っ越す。想像以上に厳しい軽井沢の冬。物のない戦時中の暮らし、繰り返す喀血、寝たきりになった辰雄の看病...と、多恵子さんにはつらい日々だったに違いない。しかし、笑顔で看病を続ける多恵子さんの明るさに辰雄はどれくらい救われたことだろう。辰雄が亡くなった後も1年の大半を追分で過ごしていた。門の扉はいつも開いて、訪ねて来るファンに気さくに応じる。中には知らずに入って来てお弁当を広げたりする観光客もいるというので、「門を閉めたらどうですか」と言う私に「いいえ、せっかくいらして下さるんですから、どなたともお会いします」と、にこやかに応える多恵子さん。

 晩年は通年を追分で過ごした。辰雄と過ごした家や書庫を軽井沢町へ寄贈したが、寄贈したことを自分から話すことはなかった。町の行事などに何かと引っ張り出されていたが、嫌な顔をせず快く応じる多恵子さんは追分のマドンナ的存在でもあった。

 そんな多恵子さんを思い出すたびに気になるのは、あの堀辰雄文学記念館の前に取り付られた「本陣の門」である。堀辰雄と何の関係もない門を「追分の目立つ場所だから」と置くのは、軽井沢文学を代表する作家・堀辰雄に対して、また追分を心から愛した多恵子さんに対しても失礼であろう。私にそっともらした「あの門は堀とは関係ないので困ります」と嘆いていた多恵子さんの気持ちを思うと、今からでもなんとか移動してほしいと願わずにいられない。(門の詳細は軽井沢新聞2016年9月号に掲載)

30年経ても洒落た庭園カフェ ミス・アナベラ

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個性的な外観だが、中はシックな雰囲気。入口右側には初代の愛犬をモチーフにした、坂井達省作の彫刻が置かれている。
TEL0267-45-0056 軽井沢町長倉820
 寺岡誠さん・恵子さん夫妻は森の中で暮らしたいと思い、1985年に横浜から軽井沢へ移り住んだ。「緑に包まれた別世界」というイメージにぴったりの場所が見つかり、カフェを開いたのが1988年。

 天井の高い個性的なデザインの洋館、大きなモミの木陰にテーブルやイスを置き、「庭園カフェ」のイメージを大切にした喫茶店が誕生した。この頃はワンちゃんOKの店は珍しく、愛犬家にも喜ばれた。店名は友人のアイルランド系米国人の祖母「アナベラさん」から名づけたそうだ。

 今年で30周年を迎える。長年愛されてきたメニューは恵子夫人手作りのアイリッシュシチューや信州りんごを使ったアップルパイ。オープン当時はアイルランドの陶器も販売していたが、その後スウェーデンのバッグやランチョンマットなども扱うようになり、今では、北欧中心の品質の良い物が買える店としても知られている。

 30年の間には、モミの大木に雷が落ちたり、隣家の火事で延焼するところだったりと、様々な出来事があった。「軽井沢ならではの素晴らしい人たちに出会えたことは幸せだった。時代に迎合することなく、上質を感じる大人の店にしていきたい」と寺岡さんは30年を振り返り、希望を語った。

プロをコーチに練習開始!キッズテニススクール

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 風越公園総合体育館で毎週水曜日に行われている、6歳〜小学3年生が対象の「キッズテニススクール」。南ヶ丘の「軽井沢インドアテニスコート」で講師を務めるプロテニスコーチの池城昌史さんをコーチに子供たちは練習に励んでいる。この日は小学2、3年生の子どもたちが3人集まり、ストロークやボレー、サーブなどの練習を行った。「テニス人口を増やしたくて始めた。この教室では楽しみながらボールやラケットの感覚に慣れてもらいたい」と池城さん。練習後子どもたちは「テニスが好き!ボールを打っているときが楽しい!」と笑顔を見せた。時間は17:30〜18:30。月謝7,200円。TEL0267-48-0077

フランス文学者 朝吹登水子 さん

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あさぶき とみこ (1917-2005)
フランス文学者 1917年東京生まれ。女子学習院中退後、フランスへ渡りブッフェモン女学校、パリソルボンヌ大学で学ぶ。1955年F・サガンの『悲しみよこんにちは』を翻訳。ボーヴォワールの翻訳など多数の翻訳を手掛ける。自伝的小説『愛のむこう側』『もうひとつの愛』など小説やエッセイも多数。1958年、第11回カンヌ国際映画祭の審査員を務める。2000年、フランス政府よりレジオンドヌール勲章シュヴァリエを叙勲。
1807_special_suikuisou.JPG 今年の11月には睡鳩荘で『旧朝吹山荘移築10年展』(仮題)が行われる。
 2018年は日仏国交160周年の年にあたる。軽井沢でフランス関係の人物といったら、すぐに名前があがるのが朝吹登水子さんだ。サガンやボーヴォワールの翻訳で知られる朝吹さんは、日本とフランスの架け橋となり、両国の文化を伝えて来た。

 1984年に原稿をお願いしたときは、まだお会いしたことはなかったが快く引き受けていただいた。届いた原稿には軽井沢の古き良き時代の夢のような物語が綴られていた。翌年には、戦前・戦後の記憶も辿って詳細に記した朝吹さんの軽井沢の思い出が、美しい写真と共に『私の軽井沢物語』として出版された。軽井沢の別荘史として、今も多くの人々に愛読されている。

 取材を通して、私は朝吹さんから軽井沢の奥深さを教えていただいたように思う。軽井沢での本来の別荘生活とは何か、どのような人々が軽井沢でどんな別荘の過ごし方をして来たか、朝吹別荘で出会った人々との交流、ヴォーリズ建築や暖炉のこと...など、数えればきりがないほど取材に協力していただき、様々な軽井沢の魅力を伝えることができた。朝吹家で出会った人と名刺交換すると、名刺には肩書がなく名前だけという人が多かった。あとで朝吹さんに聞いてみると、「元国連大使の人よ」「徳川家の方よ」など、なかなか出会えない人物だった。そういう方に「軽井沢文化人録」のページに登場していただいたこともあった。

 「避暑地軽井沢100年」の1986年に発行した写真集『軽井沢の別荘』では、ヴォーリズ建築の朝吹家別荘(睡鳩荘)を撮影させていただいた(このときの写真は7月下旬発行の軽井沢ヴィネット123号にも掲載)。両親が愛したこの別荘を朝吹さんはとても大切に思っていた。「私が元気なうちはいいけど、その後はどうなるかわからない」と睡鳩荘の行く末を心配されていた。現在、タリアセンの塩沢湖畔に移築され、多くの人たちが集うようになったことは、天国の朝吹さんが一番喜んでいるのではないかと思う。(広川小夜子)

昆虫目掛けて一目散! 軽井沢昆虫クラブ

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 「里山を楽しむ」をコンセプトに田んぼや古民家活用などの活動をしている軽井沢ネイチャークラブは春から秋にかけて月に1度、昆虫と触れ合う「軽井沢昆虫クラブ」を実施している。6月3日に行われたクラブには東京や軽井沢町内から子ども6人が集まり、塩沢地区の荒熊農道と千ヶ滝に虫採りに向かった。昆虫を見つけるとまっしぐらに走り、虫網で採集。その後の勉強会では「あるなしクイズ」を交えて昆虫について学び、部長で高校1年生の五井野響太郎さんが標本の作り方を子どもたちに実演して見せた。五井野さんは「みんなで昆虫と楽しくふれあいたくてクラブを立ち上げた。どんな人でも参加して、昆虫好きな人はさらにのめりこんでほしい」と話している。
昆虫クラブは全国からHPで参加者を募集している。次の活動は7月16日。問い合わせはTEL080・5140・1418
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