2012年08月30日

軽井沢夏季大学の初代学長を務めた新渡戸稲

軽井沢が避暑地となった理由

明治初期は人口わずか500人 った信州の寒村が
日本でも有数なリゾートになったのには、理由がある。
それはなぜか、歴史をたどってみよう。
 
  
 
 アメリカ、ドイツへ留学した新渡戸稲 は明治24年
米国女性メリー・エルキントンと結婚し一緒に帰国した。
当時、国際結婚をした人が共に帰国するというのは
珍しいこと ったという。

 明治32年に日本初の農学博士、明治39年には法学博士となり
明治44年、初の日米交換教授としてアメリカで講義を行っている。
明治33年アメリカで出版された『武士道』は国際的に高く評価されている。

 軽井沢へは明治38年からメリー夫人と共に訪れ
矢ケ崎近くに別荘を設けて避暑生活を楽しん 。

 大正7年に開講した軽井沢通俗夏季大学の初代学長を務めた。
 
 
 
nitobe%28%E5%B0%8F.jpg

新渡戸稲
1862(文久2)年 盛岡に生まれる。
明治16年    東京大学入学の後、アメリカへ留学。
明治24年    札幌農学 教授となる。
大正9年     国際連盟事務局次長就任。
昭和元年    貴族院議員就任。
昭和8年     カナダで死去、71歳
 
 
 
 
軽井沢WEBへ戻る

2012年07月13日

「平和の宮殿」と名づけた英国公使館の別荘

 明治23年(1890年)、英国公使フレイザー夫妻は伊香保から
人力車で碓氷 を越え、旧軽井沢の英国公使館別荘に滞在した。
夫人のメアリー・フレイザーは、緑に囲まれた木 2階建の
この別荘を大変気に入り『平和の宮殿』と名づけた。
「そのわけは、この家が へと続くた 1本の道に近いところに
あるとはいえ、緑にすっぽりとつつまれて孤絶しているからです」
と著書に記している。
 この著書は『外交官の妻の日本滞在―故郷から故郷への手紙』
という題で1899年に英国で出版された。のちに日本でも出版され、
明治の軽井沢を知る貴重な記録となっている。


%E3%83%A1%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%EF%BC%88%E5%B0%8F%EF%BC%89.jpg

メアリー・フレイザー
1851年生まれ。
1874年、ヒュー・フレイザーと結婚。
1888年、英国公使館夫人として来日。
1890年、軽井沢の英国公使館別荘で夏を過ごす。
1894年、イタリアへ渡る。
1899年、日本滞在時の手紙を編集し英国で出版。

軽井沢WEBへ戻る

2012年06月05日

雨宮敬次郎がつくった美しい軽井沢風景


 肺病を病み、転地療養のため軽井沢を訪れた雨宮敬次郎は
1883(明治16)年、1100町歩の土地を購入し、軽井沢最大の地主となった。
翌年、離山下の1万坪の敷地に「雨宮御殿」と呼ばれる豪華な屋敷を構える。
米国的な農 経営をしようと、ブドウ 培、家畜育成など試みるが
地理的条件の 究不足などから失敗に終わる。
その後、植林事業に転換し、成功。年30~40万本の落葉松を
人夫に植えさせ、大正期には計700万本の植樹を行った。

 北原白秋も感動した軽井沢の落葉松林の風景は、
雨宮敬次郎の功績によるところが大きい。


%E9%9B%A8%E5%AE%AE%E6%95%AC%E6%AC%A1%E9%83%8E%28%E5%B0%8F%29.jpg

雨宮敬次郎
1846年山梨県に生まれ
繭や生糸の商売で身を立て、洋銀相 で財を成した産業実業家。
1876(明治9)年、半年かけて欧米を視察。
手がけた事業は製鉄、製粉、鉄道など、多岐にわたった。
1911(明治44)年、63歳で没。


軽井沢WEBへ戻る

2012年05月09日

尾崎行雄の「莫哀山荘」


 尾崎行雄(咢 )は民主主義確立のために奔走し、軍国主義が
一世を支配したときも、平和を唱え、「憲政の父」と言われた人物。
明治2年、日本初の総選挙で衆議院議員になり、
明治31年の大隈内閣では39歳の若さで文部大臣を務めている。

 夫人のテオドラは日英の混血で、明治20年に来日。
明治23年、英国公使夫妻と共に軽井沢へ訪れた。
尾崎夫妻はA.C.ショーとも親交があり、
大正3年、英国公使別荘近くに別荘を建て「莫哀山荘」と名づけた。
莫哀とは「哀しみのない」という意味。
軽井沢では、いつも馬に乗って楽しむ家族の姿が見られたという。 

%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E8%A1%8C%E9%9B%84%E3%81%A8%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%A9P154-G.jpg
尾崎行雄とテオドラ


尾崎行雄
1858年 神奈川県生まれ。
1890年に衆議院議員となり、40歳の若さで文部大臣に就任。
当選回数、議員勤務年数、最高齢議員記録を持ち
「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれている。
東京市長の時に桜3000本を米国ワシントンへ贈った。
1954年95歳で永 。


軽井沢WEBへ戻る

2012年04月18日

ディクソンから生まれたもの

 A.C.ショーと共に軽井沢を訪れた
ディクソンの目にとまったのは、旅 「亀屋」所有の空き家 った。
そこを借りたいと申し出、ひと夏12円という当時としては
驚くほど高額な料金で話がまとまった。ディクソンはその夏、
家族を伴って軽井沢に滞在する。

 ディクソンによって、外国人のライフスタイルを知った万平は
旅 「亀屋」の畳を取って床を板張りに替え、外国人向けに改 した。
こうして明治27年、軽井沢初の洋風ホテル「MAMPEI HOTEL」が誕生。
明治32年に軽井沢ホテル、明治39年には三 ホテルが創業し、
軽井沢は外国人のための特別な避暑地となって、
高級リゾートの歴史を重ねていくのである。


%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3.jpg
ジェー ズ・メイン・ディクソン

スコットランド生まれの英国人。
1880(明治13)年に来日。
明治19~25年までに文科大学(後の東京大学)の教授を務める。
教え子に夏目漱石もいる。

軽井沢WEBへ戻る

2012年03月13日

ショーさんのナゾ、その2


 A.C.ショーは宣教の途中、軽井沢に立ち寄り、
故郷に似た風景や澄ん 空気を気に入って、軽井沢に別荘を建てた。
これは軽井沢での洋風別荘第1号で、長い間ショーハウスと呼ばれてきた。
(現在はショー記念礼拝 裏に復元されている)
ショーが友人、知人に軽井沢の 晴らしさを伝えたことから、
西洋人たちが軽井沢を訪れるようになり、軽井沢は国際的避暑地として発展した。

 ショーさんはどこの国の人なの ろうか。
英国国教会の牧師であったことは間違いなく、ショー氏記念碑にも
「英国人」と書かれている。ショーが生まれた 所はトロントであるが、
当時、カナダは英国 であったので、軽井沢では、長いこと英国人として
記されてきたの 。

しかし、毎夏、開催する“軽井沢ショー祭”に訪れたカナダ大使代理が
「カナダという国があるのですから、A.C.ショーはカナダ人と呼んでく さい」
と述べたことから、以後、軽井沢町では
「ショーさんはカナダ人」と記すようになった。


%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%28%E5%B0%8F%29.jpg
復元されたショーハウス


軽井沢WEBへ戻る

2012年02月20日

ショーさんのナゾ、その1


 軽井沢を避暑地として見出したカナダ生まれの英国国教会宣教師
アレキサンダー・クロフト・ショーが軽井沢へやって来たのは明治中期。
その年については、明治18年説と19年説がある。
三男ロナルドは1885(明治18年)と書いているが、
建築史家・宍戸実の『ショー 究』には「明治17年にトロントで過ごし、
明治18年9月にサンフランシスコを出発、10月3日に日本に戻ってきた」
と書いてあり、明治18年夏には日本に滞在していないことになっている。
明治19年の夏、軽井沢に長期滞在したことに間違いはなく、
軽井沢町ではそこから軽井沢の避暑地元年が始まったとしている。
(次回はナゾその2)


%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC%20%EF%BD%9E%20alex.jpg


アレキサンダー・クロフト・ショー
1846年、カナダ(当時は英国 )・トロントに生まれる。
1873年、英国公使館の牧師として来日。
1886年、軽井沢で避暑生活をおくる。
1888年、軽井沢に別荘第1号を建てる。



軽井沢WEBへ戻る