桜の木を贈った「憲政の神様」

軽井沢が見える万華鏡 №31

イラスト02.jpg 莫哀山荘
イラスト01.jpg
 全国的に今年は桜の開花が早かった。例年はコブシが咲いてから桜が咲くという軽井沢の花だよりが、今年はほとんど同時となり、紅白に彩られた美しい春景色を見ることができた。
 米国ではワシントンの桜が有名だが、桜を贈ったのが当時の東京市長・尾崎行雄だったことは意外と知られていない。軽井沢新聞社には尾崎行雄が娘二人を連れてワシントンの湖畔に佇む写真が残っている。もちろんコピーだが、娘の相馬雪香さんからインタビューの際にいただいたものだ。
 尾崎行雄は別名、尾崎咢堂。政治家として選挙で当選26回、勤続63年という世界でも稀有な記録を持ち、献金は一切受けないという清廉潔白な姿勢から「憲政の神様」「議会政治の父」といわれている。軽井沢には古くから別荘を持ち、軽井沢避暑地50周年のときには名誉総裁を務め、式典会場で熱弁をふるっている姿が記録されている。
 尾崎は1875年に、慶応義塾時代の英語教師で宣教師だったA.C.ショーからキリスト教の洗礼を受けた。明治期から軽井沢に別荘を持ったのは自然なことだったのだろう。妻のテオドラ夫人はショーが属した英国公使館の夫人の秘書だったとも伝えられている。
 長年、政治家を務めた尾崎の功績は大きい。中でも重要なのは、大正から昭和前期に軍国主義に傾く日本にあって「軍縮、平和路線」を唱えたことだ。
 当初はタカ派であった尾崎だが、第一次大戦後のヨーロッ
パを視察し、戦争の悲惨さを目の当たりにして、軍縮論者になった。このとき既に欧州は反軍国主義に向かっていた時期だった。 軍国化に反対する尾崎は右翼に狙われることもしばしばだったそうだ。晩秋まで軽井沢の山荘で暮らしていることもあった。
 「戦争は勝っても負けても悲惨な状況をもたらす」とは、尾崎の残した言葉。大戦後の世界の惨状を肌で感じ、日清戦争から太平洋戦争まで経験してきた彼の言葉には真実の重みがある。
 日本を民主主義にするために尽力し、「反戦争、反軍国」を明確に掲げた尾崎のような政治家が今の日本には一人でも多く必要だ。

※別荘は「莫哀山荘」という名がつけられていたが、「莫哀」とは「哀しみのない」という意味。
(軽井沢新聞編集長 広川小夜子)

関連記事