画家 深沢紅子

軽井沢で出会った人々 vol.02 広川小夜子(軽井沢新聞編集長)
明治四十四年館.JPG
20161207_154613.jpg (上)「深沢紅子 野の花美術館」は塩沢
(下)「アサマキスゲ」(水彩1991)ポストカードや便箋など、今も人気の深沢紅子の絵。
野の花を描きつづけた人
深沢紅子さん(画家)


1982(昭和57)年の夏、深沢紅子さんは堀辰雄が過ごした旧軽井沢の1412別荘で、野の花を描いていた。作家との交流も多かった深沢さんは川端康成と雲場池を回ったときの思い出を話してくれた。

 「堀(辰雄)さんの詩集に何枚も手書きのカットを入れることになって、スケッチに軽井沢へ来ました。堀さんが都合悪くて来られないときに、代わりに川端さんが案内してくださったの。とても無口な方で、黙って歩いて行くんですね。ときどき立ち止まっては『ここは堀が好きだった』とポツンとおっしゃるの」。すると、深沢さんがスケッチブックを広げて描き始める。「大きな木に鳥が群れていたのを見て『あれも堀が好きそうな木だな』とおっしゃったの」。寡黙な川端が歩く後ろを、深沢さんがスケッチブックを手に歩いて行く。雲場池を回るそんな二人の様子が目に浮かんだ。深沢さんと作家や詩人たちの交流は深く、「持前の才能が詩人たちとの付き合いで深みを増した」と長男の龍一さんも認めている。
 旧軽井沢の1412別荘は深沢さんの夏のアトリエとして使われていた。「昭和16年に堀さんがアメリカ人のスミスさんから買って大切にしていた別荘です。野村英夫さん(詩人)が『これが売りに出ているんです。今、堀さんが買おうと思って努力してお金を集めているところなんですよ』と話していたの。そしてついに堀さんが買って昭和19年までここで仕事をしていました」
 追分に引っ越したあとも堀辰雄は山荘を売らず所有していた。彼は4年しか過ごしていないが、深沢さんは夏のアトリエとして借りて約20年の夏を過ごした。
 家の中に入ると、竹で編んだような珍しい扉が目についた。「それはアンペラ張りです。昔は壁から戸まで全部アンペラ張りでしたが。ボロボロになってしまって今はこれだけ。何しろ、大正8年頃の家ですから」
 「できるだけ直さずにこのままにしておきたい」という堀夫人の意向に合わせて大事に使っていたが、その後、売却の話が持ち上がり、深沢さんは山中湖で過ごすようになった。
 長年過ごした野の花咲く軽井沢の庭は深沢さんの大切な場所だったことだろう。1412別荘は藤巻進さん(現町長)の尽力により、壊されることなく軽井沢高原文庫に移築保存された。堀辰雄の愛した山荘であるが、私には、深沢紅子さんの笑顔が浮かぶ『別荘訪問第1号』の思い出の場所でもある。

深沢紅子(1903~1993)
盛岡市生まれ。22歳のときに「二科展」に入賞し、女性第1号としてマスコミに注目される。堀辰雄はじめ作家や詩人たちと交流を深め、昭和39年頃から軽井沢で夏を過ごす。「深沢紅子 野の花美術館」が盛岡市と軽井沢町塩沢にある。

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