終戦から80年・記憶を次世代へ② 東京大空襲の翌日に軽井沢へ ぐっすり眠れた安堵の夜
戦争を経験した軽井沢ゆかりのお三方に取材協力いただきました。戦中の軽井沢の様子や終戦の日の記憶、その後の苦労、次世代への思いなど、地元住民、疎開者、旧満州からの入植者、それぞれの目線から語ってくださいました。
千ヶ滝西区 藤井多恵子 さん(94歳)
1945年3月10日の東京大空襲では、住んでいた渋谷の家の周りが被害を受けました。江戸川や葛飾方面の空が一面真っ赤で、当時6年生だった私は「きれいな夕焼け」なんて思っていたけど、焼夷弾で地上が燃えて雲に反射していたんですね。翌日に軽井沢の別荘に逃げようと、父母と2人の妹とぎゅうぎゅうの電車に、窓から逆立ちするように飛び乗ったのを覚えています。

(疎開で東京の家を発つ前に、カメラ好きの父が家のまえで撮影。一番左が多恵子さん、2人の妹と母。)
軽井沢へ来てぐっすり朝まで通して眠れたときの気持ちは、今でも忘れられません。東京では夜中でも空襲警報が鳴って、すぐ逃げられるように毎晩鉄兜をかぶって寝ていたので、頭に縁が当たって痛かったんです。
近所の人に教わって、かぼちゃや大豆、じゃがいも、蕎麦などを庭で育てました。それまで、蕎麦って私、木に麺がぶら下がるようにできるって思ってたので、自然の勉強ができましたね。
食べるものにこそ苦労しましたが、軽井沢では周りの子どもものびのび遊んでいて、戦争の気配はそこまで感じませんでした。2人の妹は千ヶ滝分校、私は小諸の女学校に通いました。学校帰りに列車が沓掛駅に着くと、母が痩せ細ったさつまいもをふかして1本持ってきてくれていました。真っ暗な道(現在のロイヤルプリンス通り)を母は提灯、私はさつまいもを片手に2人でお話しながら帰ったのは良い思い出。今思うと涙が出そうになります。
玉音放送のラジオは近所の家に集まって聞きました。よくわからなかったけど、母たちはみんな畳に突っ伏して泣いていましたね。父は前から平和主義でしたから「良かった良かった。これで娘たちに音楽をさせてあげられる」と、蓄音機で早速レコードをかけていました。
先日ウクライナのテレビを見たときに同じ警報音が鳴っていて、当時を思い出してぞっとしました。人同士の殺し合いはどうしたらなくせるんでしょう。




