終戦から80年・記憶を次世代へ③ 敗戦後に旧満州で難民生活 父と2人の姉を亡くす
戦争を経験した軽井沢ゆかりのお三方に取材協力いただきました。戦中の軽井沢の様子や終戦の日の記憶、その後の苦労、次世代への思いなど、地元住民、疎開者、旧満州からの入植者、それぞれの目線から語ってくださいました。
大日向区 市川渥夫さん(90歳)
生まれは大日向村(現在の佐久穂町)で、1938年に国の分村移民政策のため両親、姉4人、私の7人で旧満州(現中国東北部)へ渡りました。満州の大日向村は東西16㎞、南北12㎞で、父たちは米やタバコ、麻、大豆、ジャガイモなどを作っていて、敗戦前までは食料に不自由することはありませんでした。
開拓団本部で玉音放送を聞いてきた父が「日本が手を上げた」と、動揺しながら話してくれたのを覚えています。9月に入ると隣りの集落が現地住民の襲撃を受けました。私たちの集落にも「まもなく来ますよ」と、親しくしていた近所の中国人が教えてくれて、それならばと父は近くに住んでいる人に何でも好きなだけ持っていくよう伝えました。家を空けて夕方に帰ると、馬も豚も米も、土に埋めていたものまで、あらゆるものが無くなっていました。相手は一度侵略されている側なので、隠す場所も大体分かっていたんでしょうね。
9月9日にヤリや猟銃を持った大集団の襲撃があり、着の身着のまま集落を逃げ出したのです。長春の旧日本軍官舎で難民生活が始まりましたが、頭の中は常に食べもののことばかり。蒸気機関車の石炭殻の捨て場で石炭を拾って、売ったわずかなお金でヒエの粉などを買って飢えをしのぎました。満州大日向開拓団団員764人のうち374人が、栄養失調や発疹チフスなどで命を落としました。私の父、2人の姉も長春の地で眠っています。
1946年7月に、葫芦島から引揚船に乗りました。日本に着いても特別な感情は何もなかったですが、佐世保から母村へ帰る途中、広島や名古屋の焼け跡を列車から見て、爆撃ってこれほどのものなのかと思いましたね。これからを生きる人たちには、とにかく戦争の愚かさや命の尊さを忘れず、平和な日本を築いていってほしいです。

(大日向公民館併設の開拓記念館では、軽井沢入植当時の農機具や写真などを展示している。)




