終戦から80年・記憶を次世代へ① 「未来は自分たちの手で」戦後に高原塾で学ぶ

戦争を経験した軽井沢ゆかりのお三方に取材協力いただきました。戦中の軽井沢の様子や終戦の日の記憶、その後の苦労、次世代への思いなど、地元住民、疎開者、旧満州からの入植者、それぞれの目線から語ってくださいました。

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追分区 荒井輝允さん(94歳)

 小学校4年生のときに、太平洋戦争が始まりました。追分小学校の校門に2体の等身大のわら人形があり、「マッカーサー」「ニミッツ」と、アメリカの司令官の名がつけられていました。近くに置いてある竹やりで「エイ!エイ!エイ!」と3回突いて、御真影や教育勅語を安置している奉安殿にお辞儀して、校舎に向かうのが朝の日課でした。

 疎開してきていたのは学者の子どもが多く、親から「この戦争は必ず負ける」と聞いて、我々地元の子にもなんとなく伝わっていました。

 若い男の先生は兵隊に取られ、先生としてやってきたのは中学を卒業したばかりの代用教員や退役軍人。勉強はほとんどすることはなく、人手がなくなった農家の手伝いや、「決戦農場」と名付けられた学校の農場で、さつまいもやとうもろこしを育てました。飛行機の燃料になると、松ヤニを集めるのも子どもの役目でした。

 玉音放送は知人の家で大勢の大人がラジオを囲んで、子どもがその周りで聞いていたのを覚えています。ボロのラジオで、ピーピピーピーと聞こえるだけで言葉も難しく、何を言ってるかわからなかったですね。電灯を覆っていた黒い布が外され、部屋が明るくなり終戦を実感しました。

 西地区の同世代の青年団の間では「戦争に巻き込まれ、勉強もさせてもらえず、とんでもないひどい目に遭った」という意識が強くあり、やがて「これからの世の中は自分たちで作ろう」と集まって議論するようになりました。当時の区長の橋本福夫さんの人脈で、追分にやってくる学者先生たちが無償で講義してくれる高原塾も始まり、活動を後押ししてくれました。この時学んだ青年団の結束は強く、1953年に持ち上がった浅間山での米軍演習地計画に真っ先に反対したのも、このときの若者たちでした。

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