【軽井沢人物語】映画監督 羽仁 進 さん

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90年以上愛し見続けた軽井沢 全てが輝く思い出

 今年10月に94歳を迎える。教育映画最高賞受賞『教室の子供たち』(1955年)やドキュメンタリー長編映画『不良少年』(1961年)など数多くの作品を手掛け、ベルリン国際映画祭特別賞やモスクワ国際映画祭監督賞他、受賞歴も多数。

 アフリカやオーストラリアで30年以上、野生動物を撮り続けた大の動物好き。「チーターは獲物を捕って自分が食べ終わると、鳥や他の生き物にその獲物を譲る。生き物がそれぞれ尊重し合っていて、だから生物が豊かになるんですね」

 祖父母の代から軽井沢に別荘を持つ。幼少の頃に、歴史家で参議院議員の父・羽仁五郎に連れられて訪れるようになった。「軽井沢まで何時間もかかりましたが、その汽車の旅が楽しかったですね。景色が毎回変わるんですよ。峠の麓まで来て乗り換えるのも時間がかかる。今は東京に勤める人が住むようになりましたが、あの頃は移動で一日が終わって、そういう余裕があったほうがいいと僕は思うんですよね」

 当時の軽井沢は外国人の避暑客が多く、町とは言えないような場所だった。色々な国の人が交じり合って、日本人も外国人も自治区のように協力し合って避暑地の軽井沢が出来ていたと羽仁さんは話す。東京や周辺地域の人が軽井沢へ商売をしに訪れるようになり、徐々に町が出来上がっていく様子を見続けてきた。「上田の辺りで果物を作っていた人が軽井沢に来て、外国の果物など色々なものを作って売っていて、僕が通りかかると『坊や、坊や。これどうだ?』って味見させてくれて。僕が『おいしい』っていうと『じゃあ、これをもっと栽培しよう』なんて。それが中山農園でした」。

 軽井沢の歴史をよく知る文化人として駆り出されることも多い。現在は軽井沢自然景観会議の名誉会長や旧軽井沢の歴史と景観を守る会の名誉顧問などを務めている。「軽井沢は変わりました。変わることは良いことばかりではない。軽井沢らしさが失われたように思いますね」

 ハッピーバレーにある女性宣教師が建てた家を改装し滞在してきたが、今年限りで別荘を閉じることに。「軽井沢の全てが思い出」と話す横顔には、穏やかな笑みが広がっていた。

 ハーバード大学らが羽仁進作品を中心に岩波映画を上映するプロジェクトが近々始まる。10年以上かけてヨーロッパや世界中を回る長期計画で「『終わる頃には羽仁先生はいらっしゃらないと思いますが』と言われましたよ(笑)」。

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