



林幸千代美容研究所代表取締役 日本骨気協会会長 林 幸千代 さん

コルギを日本に広めた第一人者
次は、美容のメソッドを医療へ
韓国の小顔・歪み矯正マッサージ「骨気(コルギ)」の技術を外国人で初めて修得し、日本に広めた。婦人雑貨を扱う輸入貿易会社を経営していた20〜30代、出張先の国や地域で、最上級のスパマッサージを受けるのが唯一の趣味だった。2005年、韓国で受けたコルギは、現地の認知度こそ低かったが、明らかに他とは違う感覚があった。
「これからの美容は、気持ち良さやリラクゼーションではなく、見て分かる変化が重要だと思っていた。コルギはそれが際立っていて、ビジネスになると確信しました」
すぐさま弟子入りを志願するも「外国人には教えない」と突っぱねられた。諦めきれず、翌週、翌々週も日韓を往復して頼みこむと「このままだと、毎週来ると思ったんじゃないかな。『わかった、教える』と、研修生になることができたんです」。
日本初上陸のコルギは、雑誌やテレビで取り上げられ、一気に広まった。<公的な日本一の美女を担当する>という最初に掲げた目標は、2012年のミスユニバース・ジャパンの公式サプライヤーになったことで達成。その後は「どこを目指したらいいかわからず苦しかった」。
のべ5万人の施術を機に、東京、大阪、名古屋にあったサロンを2017年閉店。現在は自身のプライベートサロンでのみ、人数を制限して引き受けている。
昨年11月から表参道の歯科と業務提携し、顎関節症患者を対象にした顔カウンセリング「顔ドッグ」に取り組む。
「美容家のメソッドを、医療の分野に取り入れる初めての事例だと思う」
仕事の関係で90年代、新緑の時期に滞在した軽井沢は「旅行先ではなく住む場所」と感じた。2011年に建てた別荘は、浅間山の眺めに何よりこだわり、土地探しに4年を費やした。リビング北側は一面ガラス張りで、雄大な浅間山を正面に、眼下には軽井沢の森が広がる。
「春から夏までの変化がきれいだし、秋は黄金色に輝いて、雪が降ると墨絵の世界。毎日景色が変わって素晴らしい」
林さんにとって軽井沢は「東京で仕事をする上での活力」。週末は軽井沢で英気を養い、月曜に東京のオフィスへ直行する。
次は、美容のメソッドを医療へ
韓国の小顔・歪み矯正マッサージ「骨気(コルギ)」の技術を外国人で初めて修得し、日本に広めた。婦人雑貨を扱う輸入貿易会社を経営していた20〜30代、出張先の国や地域で、最上級のスパマッサージを受けるのが唯一の趣味だった。2005年、韓国で受けたコルギは、現地の認知度こそ低かったが、明らかに他とは違う感覚があった。
「これからの美容は、気持ち良さやリラクゼーションではなく、見て分かる変化が重要だと思っていた。コルギはそれが際立っていて、ビジネスになると確信しました」
すぐさま弟子入りを志願するも「外国人には教えない」と突っぱねられた。諦めきれず、翌週、翌々週も日韓を往復して頼みこむと「このままだと、毎週来ると思ったんじゃないかな。『わかった、教える』と、研修生になることができたんです」。
日本初上陸のコルギは、雑誌やテレビで取り上げられ、一気に広まった。<公的な日本一の美女を担当する>という最初に掲げた目標は、2012年のミスユニバース・ジャパンの公式サプライヤーになったことで達成。その後は「どこを目指したらいいかわからず苦しかった」。
のべ5万人の施術を機に、東京、大阪、名古屋にあったサロンを2017年閉店。現在は自身のプライベートサロンでのみ、人数を制限して引き受けている。
昨年11月から表参道の歯科と業務提携し、顎関節症患者を対象にした顔カウンセリング「顔ドッグ」に取り組む。
「美容家のメソッドを、医療の分野に取り入れる初めての事例だと思う」
仕事の関係で90年代、新緑の時期に滞在した軽井沢は「旅行先ではなく住む場所」と感じた。2011年に建てた別荘は、浅間山の眺めに何よりこだわり、土地探しに4年を費やした。リビング北側は一面ガラス張りで、雄大な浅間山を正面に、眼下には軽井沢の森が広がる。
「春から夏までの変化がきれいだし、秋は黄金色に輝いて、雪が降ると墨絵の世界。毎日景色が変わって素晴らしい」
林さんにとって軽井沢は「東京で仕事をする上での活力」。週末は軽井沢で英気を養い、月曜に東京のオフィスへ直行する。
日本画教室「笙彩会」元主宰 垣内 光子 さん

追分を愛する絵描き
庭や花の手入れに勤しむ
ラシャと呼ばれる厚手の毛織物を輸入販売する生地問屋の四女として、1926年に生を受け東京・渋谷北谷町で育った。現在のNHK放送センター、代々木公園一帯にあった陸軍代々木練兵場は「訓練で使う塹壕を飛び越えたり、子どもたちのいい遊び場でした」。渋谷駅の忠犬ハチ公もまだ健在で「もう年寄りでしたけど、いつも撫でていましたよ」。
1945年5月の東京大空襲で焼け出された。別荘のある軽井沢行きの列車に乗るため歩いて上野駅へ。瀕死の人で溢れていた上野駅の地下道は「今でも恐ろしく、通らないことにしています」。追分の別荘は兄姉家族で満員。結婚前だったが垣内家の矢ケ崎の別荘を借りて両親と疎開した。食糧調達のため、小諸や群馬県磯部まで足をのばしたことも。
「毎朝、軽井沢駅に並んで切符を買うんです。当てもないし知り合いもいないので、お百姓さんがいると、片っ端から声をかけました」
子どもの頃から絵が好きで、日本画家の大家跡見玉枝主宰の精華会に12歳で入門。玉笙(ぎょくしょう)の雅号を受け、1977年に日本画教室「笙彩会」を立ち上げ、隔年で作品展を催した。黄斑変性で片目がよく見えなくなる2010年まで指導した。
写真愛好家だった夫の故直介さんが雪景色を撮るのを好み、冬の軽井沢をよく訪れた。直介さんはカメラと三脚、光子さんはスケッチブックと鉛筆を手に、高峰高原や白馬などにも出向いた。直介さんらと1980年に発刊した写真集『四季の詩・軽井沢』にコラムを寄せてもらった縁で、堀辰雄夫人の多恵子さんと親しくなった。
「主人と二人で堀さんの家の暖炉の前で、よく紅茶をごちそうになりました。絵の教室に入ってくださり『気に入ったものが描けた』と、作品展にシクラメンの絵を出展されていました」
東日本大震災を機に、東京から移って追分住民に。趣味は庭の草むしりや花の手入れ。冬の間だけ佐久市のシニア施設で暮らす。部屋の窓から見える蓼科山は「戦病死した長兄が、登ったと手紙に書いてきたことがあるんです。朝夕眺めています」。
それでもやはり「周りに木がないと、神経が衰弱しちゃう」そうで、追分に戻れる桜の咲く季節を心待ちにしている。
庭や花の手入れに勤しむ
ラシャと呼ばれる厚手の毛織物を輸入販売する生地問屋の四女として、1926年に生を受け東京・渋谷北谷町で育った。現在のNHK放送センター、代々木公園一帯にあった陸軍代々木練兵場は「訓練で使う塹壕を飛び越えたり、子どもたちのいい遊び場でした」。渋谷駅の忠犬ハチ公もまだ健在で「もう年寄りでしたけど、いつも撫でていましたよ」。
1945年5月の東京大空襲で焼け出された。別荘のある軽井沢行きの列車に乗るため歩いて上野駅へ。瀕死の人で溢れていた上野駅の地下道は「今でも恐ろしく、通らないことにしています」。追分の別荘は兄姉家族で満員。結婚前だったが垣内家の矢ケ崎の別荘を借りて両親と疎開した。食糧調達のため、小諸や群馬県磯部まで足をのばしたことも。
「毎朝、軽井沢駅に並んで切符を買うんです。当てもないし知り合いもいないので、お百姓さんがいると、片っ端から声をかけました」
子どもの頃から絵が好きで、日本画家の大家跡見玉枝主宰の精華会に12歳で入門。玉笙(ぎょくしょう)の雅号を受け、1977年に日本画教室「笙彩会」を立ち上げ、隔年で作品展を催した。黄斑変性で片目がよく見えなくなる2010年まで指導した。
写真愛好家だった夫の故直介さんが雪景色を撮るのを好み、冬の軽井沢をよく訪れた。直介さんはカメラと三脚、光子さんはスケッチブックと鉛筆を手に、高峰高原や白馬などにも出向いた。直介さんらと1980年に発刊した写真集『四季の詩・軽井沢』にコラムを寄せてもらった縁で、堀辰雄夫人の多恵子さんと親しくなった。
「主人と二人で堀さんの家の暖炉の前で、よく紅茶をごちそうになりました。絵の教室に入ってくださり『気に入ったものが描けた』と、作品展にシクラメンの絵を出展されていました」
東日本大震災を機に、東京から移って追分住民に。趣味は庭の草むしりや花の手入れ。冬の間だけ佐久市のシニア施設で暮らす。部屋の窓から見える蓼科山は「戦病死した長兄が、登ったと手紙に書いてきたことがあるんです。朝夕眺めています」。
それでもやはり「周りに木がないと、神経が衰弱しちゃう」そうで、追分に戻れる桜の咲く季節を心待ちにしている。
元WBA世界ジュニアライト級チャンピオン 上原 康恒 さん
「具志堅にできるなら俺にも」
不屈の精神で王座奪取
沖縄県那覇市出身。12人兄弟の上から4番目。空手の師範だった兄の影響で、小学4年から格闘技の道へ。高校時代はボクシングを習うため、週末になると普天間基地へ通った。特設リングがあり、屈強なアメリカ軍人相手に「30試合くらいやって、ほとんどKOしましたよ」。
プロ2年目で世界タイトルに挑むも、2ラウンドKO負け。引退の二文字もよぎったが、5歳下の弟分、具志堅用高さんが世界王座に就いたことで、反骨心に火がついた。
「具志堅にできるんだったら俺も絶対できる。チャンピオンにならないと、引退後ずっと『具志堅さん』と呼ぶことになる、と言い聞かせていました」「具志堅にできるんだったら俺も絶対できる。チャンピオンにならないと、引退後ずっと『具志堅さん』と呼ぶことになる、と言い聞かせていました」
世界初挑戦から7年後、2度目のタイトルマッチの相手は、10度防衛中の強敵。米国・デトロイトの完全敵地の中、序盤は攻め込まれるも、6ラウンドに右フックがクリーンヒットし、相手をマットに沈めた。
「無意識で放ったカウンターでした。チャンピオンになると、何でも手に入るかのような気持ちになる。こんなに変わるのかと言うくらい人生が一変しました」
具志堅さんと並んでオープンカーに乗り、那覇市内を凱旋パレードしたときの光景が忘れられない。
「どこまでも人だかりでした。一番の親孝行をしたと思う」。
プロ通算32戦27勝(21KO)5敗。現役を退いた翌1982年、軽井沢へ移住しペンション兼沖縄料理店を開業。冬の寒さはこたえたが、慣れてくると「周りに仲間も増え、住みいいなと思うようになりました」。
2年前、酒や食事を楽しめる店「ちゃんぴおん」を東京都渋谷区に開き、夏以外は軽井沢と半々生活。動画サイトで昔の試合映像を見た若手が、「上原さんのようになりたい」と店を訪ねてくることも。
パンチだけでなく、歌声も一流。現役時代に尾崎紀世彦さんや松尾和子さんのコンサートで前歌を務めた。
「日本タイトル戦でもらう額より、稼げたんです。『お前はボクシングと歌、どっちをとるんだ』って、会長からも言われていました」
一男一女は独立し、歯科医の妻と二人暮らし。チャンピオンに親しみを込め、旧友などからはチャンチャンと呼ばれている。
不屈の精神で王座奪取
沖縄県那覇市出身。12人兄弟の上から4番目。空手の師範だった兄の影響で、小学4年から格闘技の道へ。高校時代はボクシングを習うため、週末になると普天間基地へ通った。特設リングがあり、屈強なアメリカ軍人相手に「30試合くらいやって、ほとんどKOしましたよ」。
プロ2年目で世界タイトルに挑むも、2ラウンドKO負け。引退の二文字もよぎったが、5歳下の弟分、具志堅用高さんが世界王座に就いたことで、反骨心に火がついた。
「具志堅にできるんだったら俺も絶対できる。チャンピオンにならないと、引退後ずっと『具志堅さん』と呼ぶことになる、と言い聞かせていました」「具志堅にできるんだったら俺も絶対できる。チャンピオンにならないと、引退後ずっと『具志堅さん』と呼ぶことになる、と言い聞かせていました」
世界初挑戦から7年後、2度目のタイトルマッチの相手は、10度防衛中の強敵。米国・デトロイトの完全敵地の中、序盤は攻め込まれるも、6ラウンドに右フックがクリーンヒットし、相手をマットに沈めた。
「無意識で放ったカウンターでした。チャンピオンになると、何でも手に入るかのような気持ちになる。こんなに変わるのかと言うくらい人生が一変しました」
具志堅さんと並んでオープンカーに乗り、那覇市内を凱旋パレードしたときの光景が忘れられない。
「どこまでも人だかりでした。一番の親孝行をしたと思う」。
プロ通算32戦27勝(21KO)5敗。現役を退いた翌1982年、軽井沢へ移住しペンション兼沖縄料理店を開業。冬の寒さはこたえたが、慣れてくると「周りに仲間も増え、住みいいなと思うようになりました」。
2年前、酒や食事を楽しめる店「ちゃんぴおん」を東京都渋谷区に開き、夏以外は軽井沢と半々生活。動画サイトで昔の試合映像を見た若手が、「上原さんのようになりたい」と店を訪ねてくることも。
パンチだけでなく、歌声も一流。現役時代に尾崎紀世彦さんや松尾和子さんのコンサートで前歌を務めた。
「日本タイトル戦でもらう額より、稼げたんです。『お前はボクシングと歌、どっちをとるんだ』って、会長からも言われていました」
一男一女は独立し、歯科医の妻と二人暮らし。チャンピオンに親しみを込め、旧友などからはチャンチャンと呼ばれている。
青山学院大学総合文化政策学部教授 井口 典夫 さん

軽井沢駅周辺を大学院等の誘致でクリエイティブ拠点に
青山学院大学の恵まれた立地を生かし、「渋谷・青山・原宿の都市文化を前面に出した学部を新設すれば、他大学にはない魅力を打ち出せる」と2008年、総合文化政策学部の新設に尽力した。学生と一緒にイベントやNHKなどTV番組の制作に協力している。2017年11月、国内の大学初となるインターネットTV局「青学TV」を開局。編集室長として、学生らが企画、取材、撮影した動画をほぼ毎日、配信している。
「学校の広報に見えて、実は青学関係の有名人も登場するエンタメ番組。大学がメディア産業になってもいいと思うんです」
「NPO渋谷・青山景観整備機構(SALF)」の理事長として、青山通りや原宿と渋谷を結ぶ遊歩道、キャットストリートの改修計画にも関わる。渋谷駅の連絡通路に芸術家、岡本太郎の大壁画『明日の神話』を招致し、魅力的な街並みづくりのルールを定めた「青山通り街並み協定書」も策定した。
「世界に誇れる日本の顔として、青山通りをパリのシャンゼリゼとも肩を並べる商業街路にすることを目指しています」
幼少期から夏を過ごしてきた軽井沢のまちづくりについても、アイデアを発信。各分野で要職につく別荘住民らからなる「国際文化都市整備機構」メンバーと、毎夏議論を深めている。軽井沢駅周辺に、大学院大学や関連産業の誘致案も打ち出した。
「クリエイティブな高等教育を受けた若者が、その能力を軽井沢のエリアで発揮できる状況を作ってあげないといけない。社会経験を積んだ人にとっては、学び直しの場にもなる」
軽井沢の長年の懸案である、繁忙期の交通渋滞解消についても持論を展開する。
「例えば、離山の下を抜ける車道用のトンネルを掘るとか、プリンス通りの下にもう一本地下トンネルを掘る。それだけで、交通の便はかなりよくなる」
1956年生まれ。1964年の東京五輪を契機に、生まれ育った渋谷・青山周辺が変貌していくのを目の当たりにした。「東京2020大会」は64年に比べ「歴史的な重さはない」としつつも、「キャッシュレス社会の構築、LGBTに対する理解など、社会的な意味で、日本が第一の先進国になれているか自己点検するきっかけになればいいと思う」。
青山学院大学の恵まれた立地を生かし、「渋谷・青山・原宿の都市文化を前面に出した学部を新設すれば、他大学にはない魅力を打ち出せる」と2008年、総合文化政策学部の新設に尽力した。学生と一緒にイベントやNHKなどTV番組の制作に協力している。2017年11月、国内の大学初となるインターネットTV局「青学TV」を開局。編集室長として、学生らが企画、取材、撮影した動画をほぼ毎日、配信している。
「学校の広報に見えて、実は青学関係の有名人も登場するエンタメ番組。大学がメディア産業になってもいいと思うんです」
「NPO渋谷・青山景観整備機構(SALF)」の理事長として、青山通りや原宿と渋谷を結ぶ遊歩道、キャットストリートの改修計画にも関わる。渋谷駅の連絡通路に芸術家、岡本太郎の大壁画『明日の神話』を招致し、魅力的な街並みづくりのルールを定めた「青山通り街並み協定書」も策定した。
「世界に誇れる日本の顔として、青山通りをパリのシャンゼリゼとも肩を並べる商業街路にすることを目指しています」
幼少期から夏を過ごしてきた軽井沢のまちづくりについても、アイデアを発信。各分野で要職につく別荘住民らからなる「国際文化都市整備機構」メンバーと、毎夏議論を深めている。軽井沢駅周辺に、大学院大学や関連産業の誘致案も打ち出した。
「クリエイティブな高等教育を受けた若者が、その能力を軽井沢のエリアで発揮できる状況を作ってあげないといけない。社会経験を積んだ人にとっては、学び直しの場にもなる」
軽井沢の長年の懸案である、繁忙期の交通渋滞解消についても持論を展開する。
「例えば、離山の下を抜ける車道用のトンネルを掘るとか、プリンス通りの下にもう一本地下トンネルを掘る。それだけで、交通の便はかなりよくなる」
1956年生まれ。1964年の東京五輪を契機に、生まれ育った渋谷・青山周辺が変貌していくのを目の当たりにした。「東京2020大会」は64年に比べ「歴史的な重さはない」としつつも、「キャッシュレス社会の構築、LGBTに対する理解など、社会的な意味で、日本が第一の先進国になれているか自己点検するきっかけになればいいと思う」。
タベアルキスト・味の手帖取締役編集顧問 マッキー牧元 さん
食べることは「料理人のファインプレー探し」
外食は年間600回以上。食べ歩きに関する十数本の連載を抱え、テレビやラジオで「食」について話す機会も多い。食べるときはいつも「料理人のファインプレーを探すこと」を意識している。
「なぜこのソースなのか、何でこの焼き方なのか、料理人の考えを咀嚼して、それを表現するのが面白い」
マッキーさんにとって、旅と食は切っても切れない関係にある。食べることを目的に足を運んだペルーは「ジャガ芋だけで50種類以上あるし、肉も魚も初めて出合う食材ばかり。衝撃でした」。「いつか食べたい料理」を問うと、アルゼンチンの牛肉と仔羊を挙げた。
「食通の間で世界一おいしいと言われている。焼きっぱなしのステーキを現地で食べてみたいですね」
祖父の代から軽井沢に別荘があり、物心つく前から訪れる。幼い頃の、軽井沢の美味しい思い出は今も胸に残っている。
「デリカテッセンのレストラン、中華第一楼、スエヒロ...。もとを辿ると、外食文化に目覚めたのは軽井沢なんです。小さい頃から食いしん坊でした」
今も夏を中心に訪れる。一人で来て溜まった原稿を書くこともあれば、家族とのんびり過ごすことも。
「故郷みたいなものです。一泊するだけで気分転換になる。食べることが目的にならない訪問地は、軽井沢くらい」。
とは言え、食べ歩きもする。
「信州や軽井沢ならではの食材で表現する方がいて、ここでしか食べられないものが増えてきて、いい傾向ですね」
自身初めてのレシピ本『超一流のサッポロ一番のつくり方』を9月に発刊する。サッポロ一番をはじめ、吉野家の牛丼、卵かけご飯、シュークリームなど、手近な食材を簡単に、いかにアレンジできるか追求した。
「動物の中で調理するのは人間だけ。食べる方法を考える過程で、脳が大きくなって、言語も生まれたと言われている。料理には人間の知恵がつまっている」
1955年生まれ。本業は音楽。ビクターエンタテインメントで、アーティストや楽曲の宣伝に携わり、55歳で退社し今の道へ。ポテトサラダ学会、鍋奉行協会、日本駅弁協会など、様々なグループも立ち上げている。嫌いな食べ物は「一切ない」という。
外食は年間600回以上。食べ歩きに関する十数本の連載を抱え、テレビやラジオで「食」について話す機会も多い。食べるときはいつも「料理人のファインプレーを探すこと」を意識している。
「なぜこのソースなのか、何でこの焼き方なのか、料理人の考えを咀嚼して、それを表現するのが面白い」
マッキーさんにとって、旅と食は切っても切れない関係にある。食べることを目的に足を運んだペルーは「ジャガ芋だけで50種類以上あるし、肉も魚も初めて出合う食材ばかり。衝撃でした」。「いつか食べたい料理」を問うと、アルゼンチンの牛肉と仔羊を挙げた。
「食通の間で世界一おいしいと言われている。焼きっぱなしのステーキを現地で食べてみたいですね」
祖父の代から軽井沢に別荘があり、物心つく前から訪れる。幼い頃の、軽井沢の美味しい思い出は今も胸に残っている。
「デリカテッセンのレストラン、中華第一楼、スエヒロ...。もとを辿ると、外食文化に目覚めたのは軽井沢なんです。小さい頃から食いしん坊でした」
今も夏を中心に訪れる。一人で来て溜まった原稿を書くこともあれば、家族とのんびり過ごすことも。
「故郷みたいなものです。一泊するだけで気分転換になる。食べることが目的にならない訪問地は、軽井沢くらい」。
とは言え、食べ歩きもする。
「信州や軽井沢ならではの食材で表現する方がいて、ここでしか食べられないものが増えてきて、いい傾向ですね」
自身初めてのレシピ本『超一流のサッポロ一番のつくり方』を9月に発刊する。サッポロ一番をはじめ、吉野家の牛丼、卵かけご飯、シュークリームなど、手近な食材を簡単に、いかにアレンジできるか追求した。
「動物の中で調理するのは人間だけ。食べる方法を考える過程で、脳が大きくなって、言語も生まれたと言われている。料理には人間の知恵がつまっている」
1955年生まれ。本業は音楽。ビクターエンタテインメントで、アーティストや楽曲の宣伝に携わり、55歳で退社し今の道へ。ポテトサラダ学会、鍋奉行協会、日本駅弁協会など、様々なグループも立ち上げている。嫌いな食べ物は「一切ない」という。
作家 下重 暁子 さん

「個は認め合っても、家族には期待しない」
2015年に発表した著作『家族という病』が、60万部を超えるベストセラーに。お父さん、お母さん、子どもという家族の中の役割分担ではなく、それぞれの個を認め合う家族の姿を提唱した。
「みんなやっぱり家族に悩んでいる。私の本を読んで『肩の荷が下りた』という意見が一番多かった」
6月に独自の夫婦観を率直に綴った『夫婦という他人』を上梓した。今年で結婚生活45年。「期待通りにならないと、落胆が大きくなり愚痴や不満につながる」と、パートナーとは最初から期待し合わない間柄を続ける。ただ、互いの自由はしっかりと認め合う。
「つれあいが数年前から、家の中で花を活けることに凝り始めて、そのセンスがいいのなんのって。40年以上一緒にいても、まだ新しい発見ってあるものです」。
著書を出すたび、批判的な意見も出るが「問題提起と思って書いているので、反論も大いに結構。いろんな人がいるんだし、違う意見があっていい」。
フィクションの執筆に取り組みたいと思っている。
「まずは恋愛をテーマにしたものを書く。早く書いておかないと、人生の締め切りが来ちゃう(笑)」
大学生の頃から、NHKアナウンサー、民放キャスター時代も、毎年一回は必ず軽井沢を訪れた。
「春の頃が好きで、落葉松の芽吹きを見るためによく来ていました」
90年代、軽井沢に家を購入しようと思い立ち、何十軒と見て回った。気に入った物件と出合えず諦めかけていた矢先、今の家と巡り合う。音楽教育家のエロイーズ・カニングハムが暮らした吉村順三設計の建物だったと、あとから知った。
「外観は質素ですが、中に入ると、風の音が通って、雨のにおいがして、外に自然が広がって...。この豊かな空間はなんだろうと、値段も聞かず『ここに決めます』と即決していました」
江戸時代の農民や商人が祝布団や大風呂敷に使った藍木綿の筒描きを50年ほど前から収集し、百数十点所有。そのコレクション展を南ヶ丘美術館・三五荘資料館で9月2日まで開催している。
「江戸時代の職人がつくる芸術作品。二つとして同じものがないのが面白い」
著書のタイトルにもなった「極上の孤独」をテーマにした講演会(無料)も8月19日、同館で行われる。
2015年に発表した著作『家族という病』が、60万部を超えるベストセラーに。お父さん、お母さん、子どもという家族の中の役割分担ではなく、それぞれの個を認め合う家族の姿を提唱した。
「みんなやっぱり家族に悩んでいる。私の本を読んで『肩の荷が下りた』という意見が一番多かった」
6月に独自の夫婦観を率直に綴った『夫婦という他人』を上梓した。今年で結婚生活45年。「期待通りにならないと、落胆が大きくなり愚痴や不満につながる」と、パートナーとは最初から期待し合わない間柄を続ける。ただ、互いの自由はしっかりと認め合う。
「つれあいが数年前から、家の中で花を活けることに凝り始めて、そのセンスがいいのなんのって。40年以上一緒にいても、まだ新しい発見ってあるものです」。
著書を出すたび、批判的な意見も出るが「問題提起と思って書いているので、反論も大いに結構。いろんな人がいるんだし、違う意見があっていい」。
フィクションの執筆に取り組みたいと思っている。
「まずは恋愛をテーマにしたものを書く。早く書いておかないと、人生の締め切りが来ちゃう(笑)」
大学生の頃から、NHKアナウンサー、民放キャスター時代も、毎年一回は必ず軽井沢を訪れた。
「春の頃が好きで、落葉松の芽吹きを見るためによく来ていました」
90年代、軽井沢に家を購入しようと思い立ち、何十軒と見て回った。気に入った物件と出合えず諦めかけていた矢先、今の家と巡り合う。音楽教育家のエロイーズ・カニングハムが暮らした吉村順三設計の建物だったと、あとから知った。
「外観は質素ですが、中に入ると、風の音が通って、雨のにおいがして、外に自然が広がって...。この豊かな空間はなんだろうと、値段も聞かず『ここに決めます』と即決していました」
江戸時代の農民や商人が祝布団や大風呂敷に使った藍木綿の筒描きを50年ほど前から収集し、百数十点所有。そのコレクション展を南ヶ丘美術館・三五荘資料館で9月2日まで開催している。
「江戸時代の職人がつくる芸術作品。二つとして同じものがないのが面白い」
著書のタイトルにもなった「極上の孤独」をテーマにした講演会(無料)も8月19日、同館で行われる。
ノンフィクションノベル作家 橘 かがり さん

実在の事件をモチーフに、
物語として構築
30代後半に大病を患い長期入院。友人が見舞いに持ってきた文芸誌を読み耽り、退院したら小説作法を学ぼうと決意した。書き始めて数年、40代前半で「小説現代」新人賞に。受賞作『月のない晩に』は、船で祖国を逃げ出したベトナム難民の姿を生々しく描いている。
「学生時代、『難民を助ける会』のボランティアで、私が日本語を教えていたベトナム人女性と仲良くなって、彼女から聞いた話をもとに書いた物語です。彼女に恩返ししてもらったように感じました」。
今年、増補版が出版された『判事の家』は、戦後最大の冤罪事件とも言われる「松川事件」がモチーフ。最後まで被告人の有罪・死刑を主張した判事、下飯坂潤夫さんは橘さんの祖父。取材のため、祖父が死刑判決を下した人物にも会いにいった。
「最初は驚かれましたが、快く迎えてくれて、その後も何度かお会いし、娘のように可愛がって頂きました」
今年発表した『扼殺 善福寺川スチュワーデス殺人事件の闇』は、1959年の迷宮入り事件について書いたもの。
「未解決事件なら、推理を働かせて小説として作っていける。書くことで事件を風化させないようにするのも使命かなと思っています」
軽井沢は4歳から毎年のように訪問。子どもの頃は万平ホテルに滞在し、周辺をよく散歩した。ある日、母の手を離れ、一人で歩いていると、霧の中で迷子に。
「地面の下から霧が湧いてくるように見えて、生き物みたいで恐いなと思ったのが、最初の軽井沢の記憶として残っています」
5年前から、新軽井沢のマンションで春〜秋の週末を中心に滞在。執筆の場として考えていたが、あまりの静けさに「仕事というより寛ぐモードになり、楽しみのための読書に没頭しています」。
戦前の日本を舞台にしたもの、日中戦争、戦後の多くの未解決事件...書きたい題材は山ほどある。ロッキード事件もその一つだ。1972年夏、田中角栄首相との会談で、万平ホテルを訪れたキッシンジャー米国大統領補佐官を、間近で見たことを覚えている。
「ロッキード事件を書くには、良い経験をしたと思っています」 次の作品に選ぶ題材は何になるのか。新作を楽しみに待ちたい。
30代後半に大病を患い長期入院。友人が見舞いに持ってきた文芸誌を読み耽り、退院したら小説作法を学ぼうと決意した。書き始めて数年、40代前半で「小説現代」新人賞に。受賞作『月のない晩に』は、船で祖国を逃げ出したベトナム難民の姿を生々しく描いている。
「学生時代、『難民を助ける会』のボランティアで、私が日本語を教えていたベトナム人女性と仲良くなって、彼女から聞いた話をもとに書いた物語です。彼女に恩返ししてもらったように感じました」。
今年、増補版が出版された『判事の家』は、戦後最大の冤罪事件とも言われる「松川事件」がモチーフ。最後まで被告人の有罪・死刑を主張した判事、下飯坂潤夫さんは橘さんの祖父。取材のため、祖父が死刑判決を下した人物にも会いにいった。
「最初は驚かれましたが、快く迎えてくれて、その後も何度かお会いし、娘のように可愛がって頂きました」
今年発表した『扼殺 善福寺川スチュワーデス殺人事件の闇』は、1959年の迷宮入り事件について書いたもの。
「未解決事件なら、推理を働かせて小説として作っていける。書くことで事件を風化させないようにするのも使命かなと思っています」
軽井沢は4歳から毎年のように訪問。子どもの頃は万平ホテルに滞在し、周辺をよく散歩した。ある日、母の手を離れ、一人で歩いていると、霧の中で迷子に。
「地面の下から霧が湧いてくるように見えて、生き物みたいで恐いなと思ったのが、最初の軽井沢の記憶として残っています」
5年前から、新軽井沢のマンションで春〜秋の週末を中心に滞在。執筆の場として考えていたが、あまりの静けさに「仕事というより寛ぐモードになり、楽しみのための読書に没頭しています」。
戦前の日本を舞台にしたもの、日中戦争、戦後の多くの未解決事件...書きたい題材は山ほどある。ロッキード事件もその一つだ。1972年夏、田中角栄首相との会談で、万平ホテルを訪れたキッシンジャー米国大統領補佐官を、間近で見たことを覚えている。
「ロッキード事件を書くには、良い経験をしたと思っています」 次の作品に選ぶ題材は何になるのか。新作を楽しみに待ちたい。
鍛冶職人 青山 裕次 さん

テレビマンから職人の道へ
軽井沢と滋賀、2拠点で創作
約1200℃まで熱した鉄をハンマーで叩き、目指す形を作る。それらを組み合わせ、門扉やフェンス、室内用のインテリアなどを創作。細長い棒を組んで作るキャンドルスタンドのシリーズは、鉄のしなやかさを生かしたデザインが特徴だ。
「本来の形を維持しながら、空気の振動などで微かに揺れ動きます。細くても復元力がある鉄だからこそできる作品です」
職人というと頑固一徹、他人の聞く耳を持たないイメージもあるが、青山さんの場合、施主と綿密な打ち合わせをして、途中経過を見てもらいながら丁寧に進める。
「できたらパーツで使う葉っぱの一つでも、一緒に作りたいんです。愛着が湧きますしね。人と関わるのが好きで、妻にも『一人で黙々と仕事しているときが、一番のストレスでしょ』って言われます」
鍛冶職人として活動する前は、NHKで報道のディレクターを12年勤めた。ものづくりを生業にする人を取材する機会があり「定年がなく、一生かけて追求できる仕事っていいなって、漠然と思ったんです」。37歳のとき、人事異動でデスクになり、取材に出られなくなると退職を決意。その後、品川の職業訓練校で「思い通り造形できる」鉄と出合い、惹き付けられた。埼玉の師匠のもとで修業を積み、京都の共同工房を経て2005年、滋賀県高島市に工房を構えた。鍛冶の世界に足を踏み入れ21年目だが「職人にとって20年は、『それなりにやってるね』というレベル。まだこれからです」。
作品展のため、10年ほど前から軽井沢で長期滞在するように。歴史ある別荘地の佇まいに魅了され2016年、旧軽井沢に中古別荘を手に入れた。
「白洲次郎、西村伊作、脇田和、吉村順三など、ボクが憧れる日本人の息遣い、その時代の空気感が、軽井沢には残っている。創作のヒントをもらえそうな気がするんです」
この6月、発地に小屋を借りて工房を新設。滋賀と2拠点で創作に取り組んでいく。
「鉄に少しでも興味があれば、気軽に訪ねてもらいたいですね」と体験教室も開催していく予定だ。
軽井沢の空気の中でどんな作品が生まれるのか。一番ワクワクしているのは、おそらく当の本人だろう。
軽井沢と滋賀、2拠点で創作
約1200℃まで熱した鉄をハンマーで叩き、目指す形を作る。それらを組み合わせ、門扉やフェンス、室内用のインテリアなどを創作。細長い棒を組んで作るキャンドルスタンドのシリーズは、鉄のしなやかさを生かしたデザインが特徴だ。
「本来の形を維持しながら、空気の振動などで微かに揺れ動きます。細くても復元力がある鉄だからこそできる作品です」
職人というと頑固一徹、他人の聞く耳を持たないイメージもあるが、青山さんの場合、施主と綿密な打ち合わせをして、途中経過を見てもらいながら丁寧に進める。
「できたらパーツで使う葉っぱの一つでも、一緒に作りたいんです。愛着が湧きますしね。人と関わるのが好きで、妻にも『一人で黙々と仕事しているときが、一番のストレスでしょ』って言われます」
鍛冶職人として活動する前は、NHKで報道のディレクターを12年勤めた。ものづくりを生業にする人を取材する機会があり「定年がなく、一生かけて追求できる仕事っていいなって、漠然と思ったんです」。37歳のとき、人事異動でデスクになり、取材に出られなくなると退職を決意。その後、品川の職業訓練校で「思い通り造形できる」鉄と出合い、惹き付けられた。埼玉の師匠のもとで修業を積み、京都の共同工房を経て2005年、滋賀県高島市に工房を構えた。鍛冶の世界に足を踏み入れ21年目だが「職人にとって20年は、『それなりにやってるね』というレベル。まだこれからです」。
作品展のため、10年ほど前から軽井沢で長期滞在するように。歴史ある別荘地の佇まいに魅了され2016年、旧軽井沢に中古別荘を手に入れた。
「白洲次郎、西村伊作、脇田和、吉村順三など、ボクが憧れる日本人の息遣い、その時代の空気感が、軽井沢には残っている。創作のヒントをもらえそうな気がするんです」
この6月、発地に小屋を借りて工房を新設。滋賀と2拠点で創作に取り組んでいく。
「鉄に少しでも興味があれば、気軽に訪ねてもらいたいですね」と体験教室も開催していく予定だ。
軽井沢の空気の中でどんな作品が生まれるのか。一番ワクワクしているのは、おそらく当の本人だろう。


- No.112(2012年10月) ステンドグラス工芸家 臼井 定一さん
- No.113(2012年11月) 作家 内田 康夫さん
- No.114(2012年12月) 『フィリピン医療を支える会』会長・歯科医 林 春二さん
- No.116(2013年2月) 画家 大山 美信 さん
- No.117(2013年3月) 軽井沢ホテルブレストンコート総料理長 浜田 統之 さん
- No.119(2013年5月) 日本シャーロック・ホームズクラブ関西支部代表 平賀 三郎 さん
- No.120(2013年6月) サイクリスト 上原 暢 さん
- No.121(2013年7月) 作家・精神科医 加賀 乙彦さん
- No.122(2013年8月) 外交評論家 磯村 尚徳さん
- No.123(2013年9月) 小説家・鷹匠 波多野 鷹さん
- No.124(2013年10月) 写真家 小谷 明さん
- No.125(2013年11月) 軽井沢図書館友の会会長 内山 章子さん
- No.126・127(2013年12月) アニメーター 冨永 潤二さん
- No.128(2014年2月) ソルトレイク五輪スノーボードハーフパイプ日本代表 橋本 通代さん
- No.129(2014年3月) ギタリスト 寺内タケシ さん
- No.130(2014年4月) 作家・ジャーナリスト 佐々木 俊尚さん
- No.131(2014年5月) テーラーメイド ゴルフ代表取締役会長兼社長 菱沼 信夫さん
- No.132(2014年6月) 株式会社バーディ代表取締役 石原 惠さん
- No.133(2014年7月) 小宮山洋子政策研究会代表 小宮山 洋子さん
- No.134(2014年8月) コラムニスト 勝谷誠彦さん
- No.135(2014年9月) さくら共同法律事務所所長 河合弘之さん
- No.136(2014年10月) オペラ歌手 藤井 多恵子さん
- No.137(2014年11月) 美術評論家 海上雅臣さん
- No.138・139(2014年12月) 環境ジャーナリスト 幸田 シャーミンさん
- No.140(2015年2月) 作家 久美沙織さん
- No.141(2015年3月) せせらぎ文庫 主宰 小林悠紀子さん
- No.142(2015年4月) アーティスト デビット・スタンリー・ヒューエットさん
- No.143(2015年5月) 日本エッセイストクラブ理事長 遠藤利男さん
- No.144(2015年6月) ガラス作家 佐藤万里子さん
- No.145(2015年7月) 女優 高田敏江さん
- No.146(2015年8月) 遠藤波津子グループ社長 遠藤彬さん
- No.147(2015年9月) 漫画家 みつはしちかこさん
- No.148(2015年10月) ソニー名誉会長大賀典雄夫人、ピアニスト 大賀緑さん
- No.149(2015年11月) 武蔵野大学教授 川村 匡由さん
- No.150・151(2015年12月) キルト作家 倉石泰子さん
- No.152(2016年2月) 軽井沢会評議員 英義道さん
- No.153(2016年3月) フィールド・マネジメント代表取締役 大雲 芳樹 さん
- No.154(2016年4月) デザイナー 西田 武生 さん
- No.155(2016年5月) 音楽家・抽象画家 マキ 奈尾美さん
- No.156(2016年7月) 脚本家 吉田紀子さん
- No.156(2016年6月) 画家 前田 利昌さん
- No.158(2016年8月)一般財団法人軽井沢会 軽井沢国際テニストーナメント委員長 金子 義明 さん
- No.159(2016年9月)作家 村山由香さん
- No.160(2016年10月)日本女子大学名誉教授 増淵 宗一 さん
- No.161(2016年11月)航空・宇宙技術士 升本喜就さん
- No.162/1631(2016年12月)建築家・東京芸術大学名誉教授 藤木 忠善 さん
- No.164(2017年2月)アマチュア・ピアニスト 村岡 清一 さん
- No.165(2017年3月)絵本作家 accototo(アッコトト) ふくだとしお さん あきこ さん
- No.166(2017年4月)東京都テニス協会常務理事 軽井沢会委員 太田 和彦 さん
- No.167(2017年5月)ハワイアン文化・フラ研究家 ジャズシンガー 井上真紀さん
- No.168(2017年6月)北京大学日本研究センター名誉教授 佐藤 敬治 さん
- No.169(2017年7月)近茶流宗家 柳原料理教室主宰 柳原 一成 さん
- No.170(2017年8月)西村伊作の第九子 西村九和さん
- No.171(2017年9月)明石康さん
- No.172(2017年10月)幸田弘子さん
- No.173(2017年11月)定成 クンゴ さん
- No.174/175(2017年12月号)元スピードスケート選手 三宮 恵利子 さん
- No.176(2018年2月)日本画家 林楷人 さん
- No.177(2018年3月)なおやマン(島﨑直也) さん
- No.178(2018年4月)長岡 はと美 さん
- No.179(2018年5月)平間 亮之介 さん
- No.180(2018年6月)青山裕次 さん
- No.181(2018年7月)橘かがり さん
- No.182(2018年8月)下重暁子 さん
- No.183(2018年9月)マッキー牧元 さん
- No.184(2018年10月)井口典夫 さん
- No.185(2018年11月)上原康恒さん
- No.186/187(2018年12月)垣内光子さん
- No.188(2019年2月)林幸千代さん