



「立ち止まる勇気」 杉原千畝の精神、今の時代にも
恵泉女学園大学副学長 岩村 太郎 さん

「ナチスに真正面から逆らったわけではないんです、杉原は。他の人が同じ方向へ流されているときに、一人踏みとどまって正義を貫いた。今の時代にも必要とされる行動ですよね」
キリスト教倫理学や哲学が専門。2018年に出版した『10歳の君に贈る、心を強くする26の言葉』は、子どもの抱える悩みや疑問に、過去の哲学者の言葉を紹介しながら答えた一冊。中国語にも翻訳され、現地での発売が決まっている。出版社に勤める教え子から、企画を持ち掛けられたのが始まりだった。
「すごく嬉しかったですよ。売れようと売れなかろうと、非常に誇らしい仕事になりましたね」
「人間はどこまで自由か」「男女間の友情は成立するか」といった、永遠に答えが出ないような問いでも、考え抜くことの大切さを学生に説いている。
「(大学入試のような)選択肢の中から正しい答えを選ぶ能力も大事だけど、人生ってそれだけじゃない。考えることをやめたら、人間はどんどん機械のようになって、魅力を失ってしまう」
幼少期から夏を過ごした軽井沢には、思い出がいっぱい。ずっと貸別荘ぐらしで、「いつかは自分の家を」と思い続け10数年前に実現。週末を中心に春〜秋に訪れる。中学3年から続けるアルトサックスは、忘れずに持参する。
「隣りと離れているし、思いきり吹けるんですよ。息子がピアノを弾くから、一緒に合わせたりね。まだまだ上手くなりたいです」
1955年生まれ。祖父、父ともに牧師で、哲学やキリスト教を学ぶことは、幼い頃から生活の一部だった。新型コロナの影響で、この一年は学校対応の協議に追われたが「どんなに忙しくても、心のゆとりは持っているようにしたいですね」。
ジャンルにとらわれない、 10代からのスタイルを貫く
作編曲家・プロデューサー・ピアニスト 羽毛田 丈史 さん

ピアノを習い始めたのは高校2年生。ギターを担当していたバンドで、ビートルズの「ヘイ・ジュード」をカバーすることになり、ピアノ経験者がいなかったため名乗り出た。
「一曲弾けるように練習したら面白くなっちゃって。高校生から始めてプロになるって、聞かないですよね。ただ、小さい頃からやっている人ととのハンデは今も感じます」
高校〜大学の頃は、今までなかったジャンルの洋楽が海を渡り、次々と入ってきた。片っ端から聴いていた羽毛田さんも、ロックにテクノ、ジャズ、ブラックミュージックなど、様々なバンドを掛け持ち。20代でプロになると、演歌歌手やアイドルのバックバンド、スタジオミュージシャンとして活動した。
「断る術を知らず、面白そうと思えば、馴染みのない分野の仕事も引き受けていました。30代から映像音楽を作り始めるのですが、それまでの経験が宝になりましたね」
母の実家があった軽井沢で、幼少期から夏を過ごした。中軽井沢駅前で祖父母が営んでいた土産店の、レジ打ちや包装を手伝ったことも。
「いろんな場所へ旅していますけど、軽井沢は来るだけで癒される。小さい頃から変わらない、特有の匂いがあるんですよね」
自身の子どもにも軽井沢の空気を感じてもらいたいと、10年前に別荘を建て、季節を問わず訪れている。
「音楽機材もピアノも置いていません。仕事はしないと一応決めていて、映画を観たりアルバムをじっくり聞いたり、完全に充電モードです」
還暦を記念し11月にソロアルバム『PIANO 60's』を発表。弾いていて気持ちいいカバーや新曲で構成した。
「特定のジャンルにとらわれない、自分のようなピアニストって他にいないなって、客観的に聴いていて思いました。さらに、自分の色を追求していきたいですね」
音楽監督兼ピアニストとして9月から、ヴァイオリニストの葉加瀬太郎さんのツアー(全国44公演)に参加。12月末に千秋楽を迎えたあと、年末年始は家族と軽井沢でゆっくり過ごす予定だ。来年2月には東京、名古屋、大阪でソロのツアーを行う。
軽井沢の空気に後押しされ、 演奏スタイルを再構築
フラメンコギタリスト 沖 仁 さん

「結果次第で、惨めな姿が全国に流れる可能性があった。そこで優勝できたのは、大きな転機でした」
オーケストラ、バレエ、能など、ジャンルを越えたコラボ活動を展開し、国内外の錚々たるミュージシャンとも共演を重ねてきた。中でも鮮烈に覚えているのは、CDデビューから間もない2003年、南米ボリビア・アマゾン地帯の村民オーケストラとのセッション。初めて目にする手づくりの楽器、独特な音色とリズムに「最初はどうしたものかと」。それでも、音の対話を続けるうちに、通じ合う手応えを感じた。
「なんとかできちゃうものですね。自分のコラボする力は、そこで随分鍛えられた気がします」
1974年、両親の別荘滞在中に軽井沢病院で生まれ、幼少期から毎年訪れた軽井沢には特別な思いがある。東京にいても、軽井沢の家から見える景色が頭から離れず、「あの風景は今も本当にあるのかなって、想像するだけで胸が苦しくなっていました」。
念願だった軽井沢移住を2019年春に決意し、今はスタジオを備えた住まいで妻と3人の子どもと暮らしている。新型コロナで公演ができない間、ひたすら家でギターと向き合っていると、これまでの弾き方に違和感を感じるようになった。
「軽井沢は自然の音が心地いいので、自分の出す一つひとつの音も、より充実させたい気持ちになったんです。積み上げて来たものを、一旦ここでリセットしようと思いました」
爪の削り方から、ギターの構え、機材の設定まで見直し、新たなスタイルを一から構築した。7カ月ぶりとなった9月のライブでは、共演したフラメンコ歌手の発する一語一句を「体中の細胞が、吸収しようとしている感じがしましたね」。
軽井沢大賀ホールで12月27日、ソロコンサートを開く。ソロとしては初めての生配信もあり「ドキドキしながら、楽しみたいですね」。
最近の趣味は「専ら庭いじり」。ギターをスコップに持ち替え、外で汗を流している。
市民目線の取材姿勢を一貫 自転車で北朝鮮横断取材も
龍谷大学名誉教授・ジャーナリスト 西倉 一喜 さん

新型コロナの影響で現在はストップしているが、外国人観光客向けに軽井沢周辺を案内するエコツアーガイドも行う。依頼者とメールでやりとりしてコースを組み立て、一緒にウォーキングする。
「軽井沢の歴史や自然、棲息している動物、抱える課題など、色々話しながら歩くんです。勉強になったと喜んでもらえるし、こっちも楽しい」
記者8年目の1980年、社内の研修制度を利用し一年間、語学留学のため中国へ。学生の立場を利用し、特派員では入れないような場所も、中国人に成りすまして見て回った。その体験を著した『中国・グラスルーツ』で、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。庶民のありのままの姿を描き出した点が評価された。
「もともと現場主義。這いつくばって、市民の目線で物事を捉える取材を続けてきました」
マニラ、北京、ワシントン支局長を歴任したのち、論説編集委員に。北朝鮮を自転車で旅する取材企画を立ち上げ、首都ピョンヤン〜港湾都市ウォンサンを横断。中国語のできる現地スタッフと並走し、国に対する思いを聞けたのは収穫だった。
「『このままじゃ北朝鮮はだめだから、改革をしなければいけない』とかね。彼らが何を考え、願っているか、それは現地へ行って生の声を聞いてみないとわからない」
今年73歳。アメリカ人の妻と2人暮らし。東京五輪に合わせ、ニューヨークの娘家族、ドイツに暮らす親戚らが、日本で一堂に会する予定だったが叶わぬまま。オンラインでは繋がれるが「もちろん生で会いたいですね」。
ハワイでは、ローカルの人らと6人制カヌーなどを楽しむ。今年は行けるかどうか見通しが立たず、冬も軽井沢暮らしになるかもしれないが、「シーンと凍てついた林の中を歩くのも最高ですね」。
どちらで過ごすにしろ、存分に楽しむスタイルに変わりはない。
ガラス作家 河上 恭一郎 さん
精力的に創作を続ける
「ガラスを通じて人の心を癒やしたい気持ちは、ずっとありますね」
食器や茶器を中心に、オブジェやアクセサリーなどのガラスデザインを手がけて57年。87歳を迎えた今もなお貪欲に、新作を発表し続けている。
代々ガラスに関わる家系で、曾祖父は明治期に官営の品川硝子製造所で学んだ。祖父の工場で作ったガラスの器などに幼い頃から触れ「美しさに惹かれていきました」。
東京芸大卒業後、松下電器産業(パナソニック)を経て、30歳で保谷硝子(現HOYA)に入社した。クリスタルガラス食器のデザインを主に担当。世界トップクラスの製作環境は魅力的だったが、個で勝負したい気持ちが高まり、54歳で独立した。
使いやすさを追求したシンプルなデザインで、表面にわずかな凹凸を表現した淡雪小鉢は、光を通したときの影が美しい。小布施堂本店では、コース料理のデザートの器として32年間、使われ続けていて「今でも発注があるのは、嬉しいよね」。
デザインの発想のため、常にアンテナを張り、感動したことは心の引き出しにしまうようにしている。
「大小関わらず、心が動いたことを貯めておくと、デザインにぱっと結びつくことがあるんです」
ひとつの作品に思いをより投影できるよう、ガラスを成形するための型も、昨年から自作している。
「料理人とキャッチボールをしながら一から作り上げたものを、お客さんに使ってもらえると嬉しいですね」
35年前、御代田町に別荘を建て、2年前に移住。軽井沢書店で「一坪のガラス展・本を添えて」を、9月22日まで開催している。これまでは銀座・和光のホールなど、広いスペースでの個展が中心で、一坪に満たない場所での展示は初めて。展示棚の1/3サイズのミニチュアを自作し、展示構成を考えた。
「作るだけでなく、どう見せたらわかってもらえるか、そこまでセットで考えないといけない」
9月から御代田町のふるさと納税の返礼品に、河上さんの19作品が加わる。「やりたいことを続けられていること」が、元気の秘訣。昨年亡くなった妻の支えは大きく、「親友に『今の河上があるのは、奥さんのお陰』と言われたけど、本当にそう思う」と目を細めた。
生産者と料理人を繋げ、 信州の「食」を伝える
スペイン料理文化アカデミー主宰 渡辺 万里 さん

「料理人に食材を使ってもらうことが、生産者の大きな自信になる。よりいいものを作らなきゃって、モチベーションも上がると思うんです」
withコロナの時代は、これまでと違った角度で、食と向き合う必要があると感じている。
「美味しいということ以前に、サスティナビリティ(持続可能性)や、自給自足、食の安全ということが、大事になっていくかもしれない。ここで仕切り直して、改めて『食』について考え、提案していきたい」
立ち上げのときからプロジェクトに関わる戸枝忠孝シェフ(レストラン トエダ)が昨年、世界最高峰の料理コンクール「ボキューズ・ドール2021」の日本代表に選ばれた。来年1月の本選に向け、広報や資金集めの面などでサポートしていく。
「今までの日本代表シェフは、所属ホテルなどの支援があったけど、個人では超大変。温かく見守って、地元をあげて応援できたらいいですね」
学習院大学法学部在籍時、スペインの政治について学んだ。語学研修で初めて訪れたスペインの地で、「食」に魅了された。
「もともとが食いしん坊。とにかく料理もワインも何でもおいしかった。『食』を文化として学びたいと、方向転換していきました」
20、30代は、一年の約半分をスペインで過ごした。各地のレストランを食べ歩き、チャンスがあれば一般家庭も訪ね料理を教わった。
「フィールドワークですね。胃袋を使っているから、ストマックワークなんて言う、偉い先生もいましたね」
1989年に「スペイン料理文化アカデミー」を開設。執筆、講演などを通じ、スペインの食文化を日本に伝えてきた。東京と軽井沢で料理教室も開いている。
両親に連れられ、小学生の頃から軽井沢を訪問。亡き母がよく口にした「少しでも長く軽井沢にいたい」という言葉が、今は身にしみてわかる。
「私にとっての安らぎの場。人と人の繋がり、距離の近さも魅力です」
築40年以上になる父が建てた山小屋を、今も大切に使っている。
「共生」を意識し、 1+1=3になるような調和を
建築家・青山学院大学総合文化政策学部教授 團 紀彦 さん
「開発ではなく、再生と共生を意識して、軽井沢にどういうものが合うか、思いを伝えていきたいですね」。
セゾン現代美術館の理事で、7月26日から始まる企画展のゲストキュレーターを務める。「都市と共生」をテーマにした自身のスケッチや資料をはじめ、美術家・大久保英治さんの新作インスタレーションなどを展示。建築家として、「共生」は常に頭の片隅にあるキーワードだ。
「ただ建てるのではなく、都市と自然、人間と自然の共生を意識して、1足す1が3になるような、調和を考えないといけない。軽井沢はまさに、その両方を大切にされてきた街だと思う」
大学時代、軽い気持ちで建築学科を選んだこともあり、建築が好きな周囲の学生と、毎週揃って建物見学に行くのが苦痛だった。そんなとき、古本屋で過去の偉大な建築家たちのスケッチに出合い、勇気をもらった。
「いろんな人がいていいと思えたんです。5人いたら5通りのやり方があるんだって」
国内では、表参道ケヤキビルの設計、日本橋コレド室町の街区と街路の再生計画のデザインを担当。台北桃園空港第一ターミナルの改修計画では、2014年に台湾建築賞を受賞している。30年前の建物を耐震構造にし、年間利用者が1500万人に増えても耐えられるよう作り変えた。
「建築や都市も、生き物のように少しずつ成長し老化していく。そのときに、過去の糸を全て断ち切るのではなく、新たな糸の結び目をつくっていく流れを大切にしたい。過去と未来の共生ですね」
現在は台湾の離島にある4つの空港の設計プロジェクトなども手がける。
相模湾に面する神奈川県葉山町で生まれ育った。山よりも海の方が馴染み深く「もう一回命があったら、軽井沢のような山の近くでも暮らしてみたいですね」。
小さい頃から素潜りが得意。64歳の今も、手銛を片手に海へ潜り、捕った魚を料理するのが楽しみだ。
胸いっぱいの思い出とともに 信濃追分駅舎で暮らし15年
編集者 那須 由莉 さん

「立原が好きだった先生はとても喜んでくださったけど、途中で灯が消えちゃった。真っ暗な帰り道が怖かったのを覚えています」
総合出版社「主婦と生活社」を経て、50歳で編集企画会社を設立。「暮しの手帖社」から依頼され2005年、別冊『あたらさん』の編集長に。無人駅となり、荒れ果てていた信濃追分駅の駅長室を借り、編集室にした。
駅舎の活用には「野の花が咲き香る、幼い頃に見た駅に戻したい」という思いもあった。地元のボランティア「オオヤマ桜を守る会」に入り、軽井沢で育った植物を持ち寄って手入れを続けた。今では春から秋にかけ、野バラやワレモコウなどで彩られる駅に生まれ変わり「その夢だけは叶ったなと思っています」。
別冊の休刊後も駅舎を編集事務所として使い、居着いた猫の面倒をみているうち、寝食の場もこちらへ。夫と2人、駅舎暮らしを続けている。
「関西方面へ取材に行った帰り、篠ノ井駅まで来ると、家に着いた気分になるの。もうしなの鉄道が我が家みたいになっている」
70歳を過ぎ「体力があるうちに身の回りの片付けを」と、15年間慣れ親しんだ駅舎を9月に引き払う。その後も東京と行き来しながら、追分の地域活動は継続していく。93歳で亡くなる直前まで一線で働いた、暮しの手帖社の元社長、大橋鎭子さん(1920ー2013)を見習い、生涯編集者を貫くつもりだ。
「東日本大震災のあとにお会いしたとき『こんなときこそ出版よ。出版は人を力づけるわよ』って。それを聞いて感動して、もうずっと続けようと思っちゃった」
信濃追分駅舎が建築から100年を迎える2023年には「ささやかでもお祝いしたいですね」。
駅舎がこの先も、来訪者に緑の高原の風を運んでくれることを願っている。
「想像力を掻き立て、 何かを感じさせることが演劇の力」
舞台演出家・演劇教育実践家・ FM軽井沢パーソナリティ まんぼ(小山 裕嗣)さん
「テーマがテーマでしたけど、こちらの発信が定まっていれば、子どもはしっかり受けとめてくれると確信していました。演劇の力って、教えを諭して何かを変えさせることではなく、想像力を掻き立て何かを感じさせることだと思っている」
1979年、東京都生まれ。都内近郊の進学校に通うも、点数序列の方針に耐えられず16歳で退学。パリ国立高等演劇院教授のワダ・ユタカさんが、東京に立ち上げた演劇学校に入り、英国、イタリアへの演劇留学も経験した。
「小さい頃から母が連れていってくれたこともあり、劇場は常に身近な存在で、気付いたときには自分が演じたくなっていました」
劇団員として公演を続けるうち「俳優と対話しながら、共同探究する方が面白い」と演出家としても活動するように。
一方で、2008年にフランスワインの輸入会社を起業し、15年に譲渡するまで経営。国際的な交渉の場で、日本人の表現力の乏しさに気付き、演劇教育の必要性を痛感した。
「交渉力は中国人、韓国人がすごい。英語の文法は滅茶苦茶だけど、伝えたい思いが強く、その熱意に相手はやられる。日本人は間違ったことを喋りたくない思いが先行してしまう」
父は小諸市、母は東御市出身で信州との馴染みは深い。昨年3月、軽井沢で子育てするため、妻と2人の息子と移住。Art-Lovingを立ち上げ、俳優を育成する「劇団かるい沢まんぼ塾」や演劇教育の講座を始動させた。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、演出を担当する公演が延期に。一部講座がオンラインに切り替わるなど、影響は少なくない。劇場や映画館などの閉館が続く中、「アートが心の栄養素になっていると、今ほど感じるタイミングはないですね」。
外出自粛で家時間が増えた子どもと、面白動画をスマホで撮影して楽しんでいる。
軽井沢に移住した音楽家夫妻、 森の中で創作に励む
ギタリスト渡辺香津美 さん ピアニスト谷川公子 さん

「過疎の村を応援したり、平和へのメッセージを音楽で発信したり、少しでも役に立つ活動がしたいというスタンスで取り組んでいます」
渡辺さんは1971年、17歳でデビュー。79年に坂本龍一さん、矢野顕子さんらと結成した「KYLYN(キリン)」は、伝説的バンドとして今も語りぐさに。その後、YMOのワールドツアーに参加。ジャズ・フュージョンの旗手として、国内外の名だたるミュージシャンと共演してきた。
「KYLYNはそれぞれのやりたい音楽が一つのうねりになってできたバンド。ボーダーレスで、プレーを気に入れば一緒にやるという時代。エネルギッシュでしたね」と振り返る。
谷川さんが2018年6月、軽井沢にピアノの師匠である加古隆さんを訪ね、森での暮らしに魅了され移住を決意。直後から土地探しに通い〈わがままいっぱい設計図〉を工務店に持ち込んで19年末、住居兼スタジオが完成した。当初は新浦安市のスタジオと半々生活を考えていた渡辺さんも、「朝の空気がまるで違う」と軽井沢にべったり。
「薪をくべて、ストーブの火を見ていると、今までの人生はこのためにあったんじゃないかと思うくらい、幸せな気持ちになるんです」
新型コロナウイルスの影響を受け、予定されていたライブが次々中止に。それでも、谷川さんは「新しいことを勉強する時間」ととらえ前向きだ。
「音楽以外のことを学んだり、旅行の写真を見返したり、自分の内側を見つめる時間をもらったと思っています。世の中の動きと呼応して、やることも見えてくるはず」
渡辺さんは来年、デビューから50周年を迎える。
「下の世代と交流しながら、コンサートできる機会を増やしたいですね。あと、気に入ったギターを森の中に持ち出して、思いつくまま弾いて配信することも考えています」
新たなサウンドが森から届けられる日も、そう遠くはないはずだ。
都市計画のスペシャリスト 聖パウロ教会の保存にも関わる
筑波大学名誉教授・北九州市立大学名誉教授 谷村 秀彦 さん
「高度経済成長の頃で、地方から都市に集まってくる人にどんな住環境を提供するかは、国家的なテーマでした。スケールの大きい仕事は、やはり面白いですよね」
1977年から筑波大学に勤務し、定年を迎える2002年まで、教授、社会工学系長、第三学群長などを歴任した。
「研究学園都市として、街が変わりゆく過程をずっと見てきました。都市計画をやっている立場としては、とても魅力的な場所でしたね」
筑波大学退職のタイミングで軽井沢へ移住。最近まで、聖パウロ軽井沢教会の教会委員長を務め、2018年から3年計画で修繕を進めてきた。献堂当時はあったと思われる、コンクリートの外壁についた木目も新たに再現した。
「当時は、砕いた浅間石も使っていたので、質の粗い黒っぽいコンクリートなんです。その色合いにも近づけました」
山あいの小さな村に数千人もの外国人が滞在していた、大正後期〜昭和初期の雰囲気が、現代にも息づく軽井沢の魅力だと考える。
「軽井沢が東洋のジュネーブと言われていた時代です。今でも人がここに押し寄せるのは、バタ臭い洒落たイメージに対する憧れがあるから。そこを忘れてしまうと、元別荘地になりかねない」
東京大学の恩師で、義父でもある吉武泰水さんは、建築計画学の創始者で、戦後の集合住宅の原型を作った人物。2003年に亡くなると、研究資料を保存するための倉庫を自宅敷地に建て「吉武アーカイブ」と名付けた。
「貴重な資料なんだけど、量が膨大で整理が大変。時々、興味のある若い学生が、見せてほしいと訪ねてきますよ」
妻と二人暮らし。聖パウロ幼稚園で月一回、園児に英語を教えている。
「今年でもう81歳だから、辞めようと思うんだけど、子どもとのふれあいが楽しくてね」
教会のコミュニティーがあり、友人は多い。木もれ陽の里の温泉で寛ぐのも、楽しみの一つだ。
神保町の老舗書店を継ぎ、 アウトレット本の専門店を開業
八木書店 代表取締役社長 八木 唯貴 さん

システムエンジニア、学術出版社での営業を経て1996年入社。それまでなかった営業部門を立ち上げ、全国の大学や公共図書館、博物館を巡って、専門書の顧客を開拓。全米からアジア研究の教授が集まる「北米アジア学会」にも2000年から毎年出店し、海外の大学にも販路を広げている。2010年、社長に就任した。
古書売買のほか、新刊取次、日本文学研究書の出版なども手がける。アウトレット本(販売開始から一定期間を経て、出版社が定価販売の指定を外した書籍)の卸売事業は、業界トップシェア。200社を超える出版社の15000タイトル以上を取り扱い、近年は英米の洋書も輸入している。
「右肩あがりの頃は、あえてアウトレット本を置かなくても、新刊書店は収益が見込めていました。最近は、新刊書店でも扱っていただけるところが増えていますね」
昨年11月、日本初のアウトレット専門ブックショップ「PAGES」を、軽井沢・プリンスショッピングプラザにオープンした。
「本の種類によっては、時間が経っても価値が失われないものもある。故紙化されていたかもしれない本を、より活かして行くことが私たちの使命だと考えています」
旅行と自然が好きで、20代は北海道にはまり、30代は欧米の国立公園を巡り歩いた。東京暮らしからの脱却を夢見ていた2007年夏、旅行で軽井沢に滞在。ふらっと立ち寄った不動産屋で紹介された場所が気に入り、翌年の7月に移住した。妻、娘2人と4人暮らし。一生縁がないと思っていたゴルフは、軽井沢の友人に誘われ、いざ始めてみると夢中になった。
「自然の中でプレーするのが気持ちよくって。朝起きて晴れていたら、『きょう行こう』って判断できる。東京だとこうはいきませんね」
平日は東京と往復する通勤族。週末は軽井沢の店舗へも足を運ぶ。「大変さももちろんありますけど、多くのお客さまに励ましの言葉を頂き、やりがいを感じています」と、日本初のアウトレット書店の運営を楽しんでいる。
料理人として一線を退くも、 家では毎日3食手づくり
エルミタージュ・ドゥ・タムラ 元シェフ 田村 良雄 さん

「えらくまずかったんです。こんな有名なシェフでも試作はまずいんだから、セオリーは気にせず、好き勝手作ればいいんだと思えた瞬間でした」
帰国後、32歳で「フェヤーモントホテル」総料理長に抜擢されると、修業時代には得られなかった充足感があった。
「自分で考えた料理を提供し、お客さんが喜んで、また来てくれる。もう面白くてね、一年のうち363日はホテルにいましたよ」
西麻布に自身の店「ラ・フェ・ドール」を構え、40代も半ばにさしかかった頃、疲れがピークに達し、ふと「空が見えるところにお店を持ちたい」と思うように。妻の久美子さんの助言もあり、生まれて初めて軽井沢へ。最初に見た物件の佇まいが、修業時代のフランスの店に似ていて一目で気に入り、東京の店をたたみ2000年、「エルミタージュ・ドゥ・タムラ」をオープンした。
地方での開業は初めてだったが、口コミなどで評判は広がり「お客さんが来てくれるかどうか」という心配は、杞憂に終わった。
「軽井沢は知的な雰囲気があって、客層がいい。今、一線でやっている知り合いの東京のシェフでも、出店を考えている人は多いですよ」
5〜6年前から、立っているのも辛いほどに腰の痛みが悪化。手術したのを機に2017年3月に引退し、弟子の大塚哲也シェフに店を引き継いだ。今は、自宅の庭で野菜やハーブを育て、海釣りに行き、雨の日は草履作りなどをして過ごしている。キッチンには毎日立ち、料理は3食、奥さんの分もしっかり作っている。
「娘からはカツオとか、マグロとか、回遊魚のようだって言われています。何かしていないと死んじゃうって。ストレスはゼロの生活ですね」
今後は老人施設に出向いて料理を振る舞ったり、無理のない範囲でボランティアもしていきたい考えだ。
全日本マスターズで2冠 「数値化できるのが陸上の魅力」
元ソニーデザイナー 天沼 昭彦 さん
「念願の海外だったので、首輪を解き放たれたように動き回っていました」
その後、赴任したアメリカでは「マイ・ファースト・ソニー」というコンセプトで、子ども向けのカラフルな電化製品をプロデュース。当時のソニー製品は黒か銀が主流。原色のデザインを見た社長の大賀典雄さんは「ソニーはおもちゃ屋じゃない」と一蹴。その後、会長の盛田昭夫さんを訪ねると「一目見て『面白いね』って。全く性格の違うお二人でした」。
もともと独立志向は強かったが、「ソニーが面白すぎて」気付くと50代に。慕っていた大賀さんが退職するタイミングで自身も独立。デザイン事務所を設立し、東洋大学ライフデザイン学部人間環境デザイン学科の教授も務めた。学生には「マーケティングを知らないと『私の作品』になってしまう。交渉力や説得力も、デザイナーに必要なスキル」などと、これまでの経験を伝えた。
母が疎開していた関係で1944年に軽井沢で生まれ、その後は東京で育った。家族の事情もあり2012年、軽井沢へ移住。佐久平総合技術高校で講師を務めたり、上田市の音響・通信機器メーカーが開発した真空管アンプのデザインを手がけるなど、信州でも縁を広げている。
中学時代に打ち込み、65歳から再開した陸上(短距離)の練習が日課だ。日本トップ選手の練習方法を調べて実践するなど、ソニー時代に培ったリサーチ力をここでも活かしている。今年9月の全日本マスターズ陸上競技選手権(75〜79歳クラス)では、60m(8秒87)と100m(14秒15)の2種目で優勝した。
「冬から準備して狙っていたので、嬉しかったですよ。デザインの仕事と違って、結果を数値化できるのが陸上の魅力だと思う」
来年の目標は200mと合わせて3冠。今のタイムをキープし5年後、80〜84歳のクラスに出場すれば、日本記録を更新できるとあり「早く年を取りたいんです」と笑顔を見せた。
「地球外生命体の探索は、 もうSFの話ではない」
国立天文台長 常田 佐久 さん
研究対象に太陽を選んだのは「恒星の中では最も近く、観測機器がなかった当時(40数年前)の日本でも、工夫を凝らせば成果を出せる」と思ったから。太陽観測衛星の開発は、国の膨大な予算を投じる、10数年がかりのプロジェクト。打ち上げが成功し、初めての天体撮影が成功するまでは「生きた心地がしないですね」。
「ひので」は13年経った今も、高度680kmの宇宙空間から太陽観測を続けている。観測データは、打ち上げ直後から即時公開し、世界30カ国の研究者が利用。発表された論文は2400を超え、NASAやESA(欧州宇宙機関)の太陽観測衛星計画にも大きな影響を与えた。
「今では、『ひので』がどこの国の衛星かわからない、という人もいる。生産性の高い仕事になりました」
2018年4月から現職。国立天文台の最も重きを置くプロジェクトが、口径30mの超大型地上望遠鏡TMTの建設計画。数カ国共同で2030年の完成を目指している。太陽系外惑星に生命の兆候を探ることが、目的の一つだ。
「太陽系外のほとんどの星に惑星があって、地球のような惑星もかなりあることがわかっている。地球外生命体の探索なんて、若い頃は考えもしなかったけど、もうSFの話ではない。多くの天文学者の関心も、そちらにシフトしています」
20年ほど前から、北軽井沢の山荘を訪れている。以前は夏中心だったが、年々頻度は増え、季節を問わず月に2回ほど来ている。
「特に冬がいいですね。雪が積もった風景が非常にきれい。特別なことは何もしませんが、ストレスが消え、東京で疲れた心身がもとに戻るんです」
1954年生まれ。いずれ北軽井沢への移住も視野に入れるが、「新しい観測施設の建設にめどをつけて、若い人たちが十分活躍できる環境を整えるのが先」と前を向く。世界が注目する大きな仕事がまだ残されている。
メディアプロデューサー 渡邊 満子 さん
「満子」の名付け親は、外務大臣、大蔵大臣、内閣総理大臣などを歴任した政治家で、祖父の大平正芳(1910-1980)。時の首相、池田勇人夫人の満枝さんから一字をとって「2秒で決まったようです」。
幼い頃から訪れた軽井沢では、祖父と過ごす時間が長かった。夕食後、一緒に懐中電灯を手に、旧軽銀座まで、かき氷を食べによく出かけた。
「大の甘党で、あんこが好きだった祖父が決まって頼むのは、『氷宇治金時白玉』でしたね」
別荘滞在中、モンペ姿の行商のおばさんが訪ねてくると、心が躍った。
「『よっこらしょ』と下ろした籠の中から、何が出てくるか楽しみで...。とうもろこしや桃、スモモとか、美味しそうなものがいっぱい出てくるんです」
中学・高校時代は、毎晩21時頃から東京の祖父の家に集まってくる番記者に、お酒やおつまみを提供するのが日課。党内の派閥抗争などで苦悩する祖父の姿を目の当たりにした。
「どろどろの政治の世界を10代で垣間見ました。ただ、人は人を裏切るけど、料理は人を裏切らない。ひたすら料理を作っては振る舞っていました」
慶應義塾大学卒業後、日本テレビ放送網に入社。『キユーピー3分クッキング』のディレクター、プロデューサーを歴任し20年間担当。『天皇皇后両陛下ご成婚50年記念特番』など、皇室の番組も多く手がけた。美智子さまが皇室に上がり、最初に仕事をした政治家が大平正芳だったこともあり「親近感を持って、接して頂いています」。
2009年に退社後、書籍『祖父 大平正芳』(中央公論新社)、『上皇后陛下 美智子さま心のかけ橋』(文春文庫)を発表。ホテルオークラ東京『名家の逸品』展を企画するなど、幅広く活動している。
「祖父は、世の中のために役立つことをしたくて、結果的に政治家になった人。私も、私にしかできないことを続けていきたいです」
9月下旬から、東京タワー2階のアートギャラリーで始まる写真展『東京タワーを見つめた60年 皇族をお迎えして』をプロデュース。東京タワーを訪問された皇族の写真とともに、様々な色でライトアップされた各時代のタワーの姿を展示する。
自由ケ丘別荘地「軽井沢みどり会」事務局長 原田 克乃 さん

初めて軽井沢を訪れたのは10代の頃。心臓の弱かった母が夏を過ごすため父が建てた、自由ヶ丘別荘地の山荘に毎年滞在するようになり50年以上になる。
別荘を訪れるようになって間もなく、別荘地を管理していた開発業者が倒産。簡易水道(現在は町水)設備や管理事務所などの土地を別荘地の仲間と買い取り、1967年に「軽井沢みどり会」を発足。現在は40世帯が所属し、3年に1回総会を開いて問題点を話し合っている。
「最初は運命共同体のような形でスタートした会でした。それだけに団結力は強かったようです。みどり会では別荘を建てる方に規約や歴史を伝えてきたのですが、今は自治会に関わりたくないという方も増えて、なかなか伝えることができなくなってきました。別荘は個人で守れますが、別荘地はそこに暮らす人たちで守っていく必要があると思うんです」
長年、みどり会事務局長として会員への報告を密にすると同時に、町長や役場の職員に相談にのってもらい、近隣の区長や住民と話し合いを持つなど地元との交流も大切にしてきた。
昔の自由ヶ丘別荘地はまだ木々が低く、浅間山がよく見え、山野草もたくさん咲いていた。木々が大きくなった今は爽やかな風が通り、野鳥が訪れ、豊かな緑が広がっている。
「自然が残っている別荘地ですね、とよく言っていただくので、そのまま維持できればいいなと私たちも努力しています」
軽井沢別荘団体連合会の推薦を受けて、今年の春から、軽井沢町自然保護審議会」の委員を務めている。別荘地の環境を守るために、土地の木を切るときは敷地の何%までという「伐採率」を決めてはどうかと、別荘団体連合会では提案している。
「軽井沢の別荘地としての歴史や環境を理解して下さる方が増えるといいと思っています。そのためには行政にも、都会的なものや軽井沢にふさわしくないものを持ってくることのないように規制を作ったりして、別荘地を守る手助けをしてほしいと思います」。
同別荘地で活動する「森のようちえんぴっぴ」も、みどり会に属している。原田さんは幼い子供たちに「自然との共存生活で学んだことを成長した時に活かしてほしい」と願っている。
日本木琴協会会長 朝吹 英世 さん
日本マリンバ界の活性に寄与
マリンバの呼び方が主流になった時代の流れにあわせ来年1月、会の名称を「日本マリンバ協会」に変える。
「『マリンバ』とネット検索しても、協会のホームページが出てこない。マリンバに関心がある人の窓口になれるよう変更を決めました」
1954年生まれ。父が建てた軽井沢の別荘を、6歳から訪れる。クーラーのないクルマに5〜6時間揺られることは苦痛だったようで「軽井沢に着けば涼しくなるという一心で、耐え忍んでいましたね」。
中学3年の夏の終わり、別荘近くを自転車で走行中、チェーンが外れた反動で前方へ投げ出された。腹部の大動脈を損傷し、右の腎臓が半分破裂する大ケガを負った。木家医院で緊急手術し、佐久総合病院に入院。退院したとき仰ぎ見た浅間山には、雪が積もっていたのを覚えている。
「2学期を全休しました。父に習っていたマリンバも辞めて、そこからは受験勉強一本。マリンバを再開したのは、父が亡くなった年。40を過ぎてからでしたね」
本業はビジネスマン。横浜ゴムグループのゴルフ用品メーカー「プロギア」の立ち上げから、商品の企画・開発、プロモーションに携わった。
「業界参入当時、クラブのヘッドは柿の木。どんどん軽くなっていく技術革新の変遷を見てきました」
父英一さんが1929年、日本人として初めて作曲した木琴のオリジナル曲のタイトルは「軽井沢の美人」。美人が誰を差すかは「聞きそびれてしまったんです。ただ、父の青春時代の軽井沢は、欧米の方が多かったので、海外の人じゃないかと思うんです」。
軽井沢集会堂で8月24日に開く演奏会「ホリデイ・イン・カルイザワ」は、今年16回目。10数組約40人が出演し、英一さん作曲のマリンバ曲などを奏でる。英世さんも「軽井沢の美人」などを演奏する。
画家 篠原 義易 さん

上皇ご夫妻とも交流
軽井沢生まれ軽井沢育ち。幼い頃から身近にあった浅間山は、「いくつ描いたかわからない」特別な存在。35年余の中学校美術教師勤務で渡り歩いた5校(立科、芦原、御代田、小諸東、軽井沢)も、「浅間が見えるところを希望した」ほどだ。
祈りをモチーフに自身の内面を具象化した作品『聖盃拝受(せいはいはいじゅ)』が2001年、美術団体「元陽会」の内閣総理大臣賞を受賞。御代田中時代の教え子が実行委員会を立ち上げ、記念の個展を開いてくれた。これまで発表した2冊の画集の印刷・製本も、印刷会社を経営する芦原中時代の教え子にお願いした。
「同級会が毎年いくつかあって、多くの生徒やその親と未だに繋がっている。教え子は宝ですよ」
3年がかりで制作した大壁画『御代田の祭り--豊穣の祈り』(高さ194cm、幅486cm)を、御代田町の庁舎新設にあわせ昨年寄贈。裾野がのびる浅間山に抱かれるように、御代田を代表する3つの祭り(龍神まつり、小田井宿まつり、寒の水)や旧跡、名所を描き入れた。
「あれだけの祭りを続けている場所って他にない。どれも個性的だし見応えがある。教え子や地域から受け取ったものを、形で何か返せればという思いでした」
戦時中に疎開した上皇后美智子さまは、軽井沢第一国民学校の同学年。軽井沢で上皇ご夫妻のテニス相手を夫人の克代さんが務めた縁もあり、これまで2回、お二人を自宅に招いている。2回目の訪問時(2015年)、前出の大壁画を制作中だった2階のアトリエに案内できなかったのが心残りだ。
「階段の上り下りで何かあっては大変と、許可が下りませんでした。ご夫妻には今まで同様、軽井沢へ静養にいらしてほしいですね。その折に大壁画を見て頂けたら、こんな幸せなことはない」
画業60年以上。85歳の今も毎朝2時間、絵と向き合う。「最後の仕事」と決め取り組んでいる50号の作品は、たなびく雲海の切れ目から、佐久市跡部に伝わる一遍上人の踊り念仏が垣間見える。秋篠寺(奈良県)の伎芸天立像も右に配した。
「絵を前にアイデアが浮かばず、全く描けない日もある。ゆっくり進めているので、いつ完成することやら」
アトリエの北西では、浅間山が今日も穏やかな姿をたたえている。
大里研究所理事長・世界エイズ研究予防財団理事兼日本事務所代表・ウィティア大学理事 林 幸泰 さん

予防医学と教育に尽力
3月に歴史上初めてイギリス・ロイヤルファミリーが軽井沢を訪れた。マイケル・オブ・ケント王子を軽井沢へ招いたのが、林幸泰さん。自宅のある岐阜県から月2回、南原の別荘を訪れている。
「イギリスのライフスタイルが好きで、軽井沢にはイギリスとの共通点を感じます。クラシックカーのあるライフスタイルを楽しみたいと思って、軽井沢に別荘建設を計画。友人で元国連事務次長の明石康さんのアドバイスで南原を見て、すぐに決めました」
海外出張の多い日々だが、イギリス製の愛車を運転して軽井沢へやってくる。その道中も楽しいという。
「別荘を建てて6年ですが、軽井沢はソサイエティがしっかりしている。自然が豊かで歴史もあり、おもてなしの心を感じます。外から見ると派手に見えるかもしれませんが、暮らしてみると、安心して過ごせる良い社会が作られています」
国立岐阜工業高等専門学校卒業後、アメリカのカリフォルニア州リオ・ホンド・カレッジとウィティア大学で経営管理学を学んだ。FPP(パパイヤ発酵食品)の研究を進める大里研究所の理事長として予防医学に取り組んでいる。
「高齢化社会になり、医療費が増加。長生きできることは幸せだけれど、認知症も増えている。世界の認知症患者の10分の1は日本人。予防する方法をいち早く研究して他の先進国にも伝えたい。医療費削減には予防医学が重要です」
林さんは認知症と脳のエネルギー代謝の関係に注目。FPPによる脳のエネルギー代謝への働きについて、フロリダ大学、オハイオ州立大学、インディアナ大学、イタリア国立衛生研究所、パリ大学などと共同で研究を進めている。
ノーベル賞受賞者で世界エイズ研究予防財団をユネスコに設立したモンタニエ博士からアジアでの活動を手伝ってほしいと言われ1998年に同財団の日本事務所を開設。「病気の予防には教育が大事」と主に岐阜県の小中学生にエイズ予防の教育活動も行っている。
「子ども達がいかに健康を維持できるかが大切で、最大の予防薬は教育。将来病気にならないように、予防の重要性を伝える活動を軽井沢でも始めたいと思っています」
ストリートからCDデビュー 国内外で音色を響かせる
オカリナ奏者 ホンヤ ミカコ さん

21歳で初めてオカリナを手にした。ワーキングホリデーのビザを取りにオーストラリア大使館へ向かう途中、美しい音色のする方へ歩を進めると、広場でオカリナを吹く青年を見かけた。
「すっかりその音に惹かれまして、その日の帰りにぽっと入った楽器屋さんで、ぽっとオカリナを買いました。今は200本ほど持っていますが、ずっと吹き続けている最初の一本です」
オーストラリアから帰国後、パントマイム専門の劇団「汎マイム工房」に入団。マイムの練習に励むかたわら、新宿駅西口でオカリナ演奏の路上ライブを週一回、2年間続けた。その演奏を聴いたレコード会社担当者から声がかかり、デビューが決まった。当時はマイムとオカリナを全く別のものとして捉えていたが、今は強い結びつきを感じている。
「存在しないものを存在するようにみせるマイムは、役者が思いを強く持つことが大事。劇団では、演出家から自分の存在意義を問われ続ける日々でした。それが自分を深く掘り下げていくことに繋がり、曲作りにも大いに生かされています」
昨年「ゼルダの伝説コンサート」にオーケストラのソリストとして出演。国内外でコンサートを開き、今夏は南米のペルー、ボリビアでも公演を予定している。
「言葉は通じなくても、音色一つでこんなにも会場と一体になれるんだといつも感動しますね」
2015年、公演のため初めて訪れた群馬県嬬恋村の自然に魅了され、17年同村に移住した。
「自然の中を歩き回っていると、言葉を話す前の幼い頃の感覚がよみがえる気がします。その感覚に集中していくと、風の肌ざわりや自然の匂いと一緒に、メロディーが降って湧いてくることがあるんです」
北海道帯広市出身。西日本放送(香川県)の番組企画で2001〜02年、四国八十八箇所の歩き遍路を体験。いつか日本全国をキャンピングカーでくまなく巡り、各地で公演したいという思いがある。
「ご高齢の方々にも気軽にお越しいただけるような、町内会単位のコンサートを思い描いています」
技術士(森林部門) 元千葉県副知事 大槻 幸一郎 さん

「森には人を元気にしたり、悩み事の解決策を閃かせてくれる力がある」
森と長く付き合ってきた一人として、森のもつ不思議な力を伝えていくことも役目の一つだと思っている。
父が製紙会社に勤務し、ブナ材の買い付けをしていた影響で、山に興味を抱くように。農林水産省林野庁に就職後、北海道の大雪山近くの営林署に署長として赴任。大台風で壊滅的な被害を受けた森林が、自然力だけで再生している姿に感動した。
「森について学ぶには、樹海に飛び込んでいって自分の言葉で森に問いかけるしかない。北海道勤務は、山の技術者として最大の収穫でした」
2001年から5年間、堂本暁子千葉県政のもと副知事を務めた。国内で初確認されたBSE感染牛の処理や、産業廃棄物不法投棄の対策などに取り組んだ。内部改革で幹部職員の意欲向上にも努めた。
「トップとの考えとは違ったとしても、一県民の立場から意見しやすい雰囲気作りを心がけましたね」
空から地上のデータを取る航空測量大手のアジア航測に2007年から10年間勤め、社長、会長などを歴任。レーザー計測を森林分野に導入するなど業務拡充し、他社からのM&A(買収・合併)提案をはねのけた。アジア航測と大槻さんの関係の始まりは、大学時代までさかのぼる。
「叔父が勤めていた縁で、アルバイトをしていたんです。叔父の葬儀で、40年ぶりに再会した当時の指導係が、社長になっていました。数年後に『手伝ってほしい』と声がかかったんです。長年の公務員勤めの末、企業の最難題の資本政策まで関わることになるとは思わなかった」
2006年、軽井沢に移住。町の自然保護審議会や、森林整備計画策定準備委員会に名を連ねる。軽井沢の森が抱える課題の一つに、別荘地などでモミの木が大きく育ち、上手く管理されていないことを指摘する。
「樹木を一斉点検して、専門家が木の所有者にアドバイスしたり、樹木管理に必要な資金を町が助成したりする制度が必要だと思う。行政の担当者、不動産業者、森林所有者、市民らが定期的に集まって、軽井沢の森について考える機会があってもいい」
1948年生まれ。山をこよなく愛するが「あの異様な姿には背筋が寒くなる」と、ヤマビル(陸生のヒル)だけはどうしても好きになれない。
林幸千代美容研究所代表取締役 日本骨気協会会長 林 幸千代 さん

次は、美容のメソッドを医療へ
韓国の小顔・歪み矯正マッサージ「骨気(コルギ)」の技術を外国人で初めて修得し、日本に広めた。婦人雑貨を扱う輸入貿易会社を経営していた20〜30代、出張先の国や地域で、最上級のスパマッサージを受けるのが唯一の趣味だった。2005年、韓国で受けたコルギは、現地の認知度こそ低かったが、明らかに他とは違う感覚があった。
「これからの美容は、気持ち良さやリラクゼーションではなく、見て分かる変化が重要だと思っていた。コルギはそれが際立っていて、ビジネスになると確信しました」
すぐさま弟子入りを志願するも「外国人には教えない」と突っぱねられた。諦めきれず、翌週、翌々週も日韓を往復して頼みこむと「このままだと、毎週来ると思ったんじゃないかな。『わかった、教える』と、研修生になることができたんです」。
日本初上陸のコルギは、雑誌やテレビで取り上げられ、一気に広まった。<公的な日本一の美女を担当する>という最初に掲げた目標は、2012年のミスユニバース・ジャパンの公式サプライヤーになったことで達成。その後は「どこを目指したらいいかわからず苦しかった」。
のべ5万人の施術を機に、東京、大阪、名古屋にあったサロンを2017年閉店。現在は自身のプライベートサロンでのみ、人数を制限して引き受けている。
昨年11月から表参道の歯科と業務提携し、顎関節症患者を対象にした顔カウンセリング「顔ドッグ」に取り組む。
「美容家のメソッドを、医療の分野に取り入れる初めての事例だと思う」
仕事の関係で90年代、新緑の時期に滞在した軽井沢は「旅行先ではなく住む場所」と感じた。2011年に建てた別荘は、浅間山の眺めに何よりこだわり、土地探しに4年を費やした。リビング北側は一面ガラス張りで、雄大な浅間山を正面に、眼下には軽井沢の森が広がる。
「春から夏までの変化がきれいだし、秋は黄金色に輝いて、雪が降ると墨絵の世界。毎日景色が変わって素晴らしい」
林さんにとって軽井沢は「東京で仕事をする上での活力」。週末は軽井沢で英気を養い、月曜に東京のオフィスへ直行する。
日本画教室「笙彩会」元主宰 垣内 光子 さん

庭や花の手入れに勤しむ
ラシャと呼ばれる厚手の毛織物を輸入販売する生地問屋の四女として、1926年に生を受け東京・渋谷北谷町で育った。現在のNHK放送センター、代々木公園一帯にあった陸軍代々木練兵場は「訓練で使う塹壕を飛び越えたり、子どもたちのいい遊び場でした」。渋谷駅の忠犬ハチ公もまだ健在で「もう年寄りでしたけど、いつも撫でていましたよ」。
1945年5月の東京大空襲で焼け出された。別荘のある軽井沢行きの列車に乗るため歩いて上野駅へ。瀕死の人で溢れていた上野駅の地下道は「今でも恐ろしく、通らないことにしています」。追分の別荘は兄姉家族で満員。結婚前だったが垣内家の矢ケ崎の別荘を借りて両親と疎開した。食糧調達のため、小諸や群馬県磯部まで足をのばしたことも。
「毎朝、軽井沢駅に並んで切符を買うんです。当てもないし知り合いもいないので、お百姓さんがいると、片っ端から声をかけました」
子どもの頃から絵が好きで、日本画家の大家跡見玉枝主宰の精華会に12歳で入門。玉笙(ぎょくしょう)の雅号を受け、1977年に日本画教室「笙彩会」を立ち上げ、隔年で作品展を催した。黄斑変性で片目がよく見えなくなる2010年まで指導した。
写真愛好家だった夫の故直介さんが雪景色を撮るのを好み、冬の軽井沢をよく訪れた。直介さんはカメラと三脚、光子さんはスケッチブックと鉛筆を手に、高峰高原や白馬などにも出向いた。直介さんらと1980年に発刊した写真集『四季の詩・軽井沢』にコラムを寄せてもらった縁で、堀辰雄夫人の多恵子さんと親しくなった。
「主人と二人で堀さんの家の暖炉の前で、よく紅茶をごちそうになりました。絵の教室に入ってくださり『気に入ったものが描けた』と、作品展にシクラメンの絵を出展されていました」
東日本大震災を機に、東京から移って追分住民に。趣味は庭の草むしりや花の手入れ。冬の間だけ佐久市のシニア施設で暮らす。部屋の窓から見える蓼科山は「戦病死した長兄が、登ったと手紙に書いてきたことがあるんです。朝夕眺めています」。
それでもやはり「周りに木がないと、神経が衰弱しちゃう」そうで、追分に戻れる桜の咲く季節を心待ちにしている。
元WBA世界ジュニアライト級チャンピオン 上原 康恒 さん
不屈の精神で王座奪取
沖縄県那覇市出身。12人兄弟の上から4番目。空手の師範だった兄の影響で、小学4年から格闘技の道へ。高校時代はボクシングを習うため、週末になると普天間基地へ通った。特設リングがあり、屈強なアメリカ軍人相手に「30試合くらいやって、ほとんどKOしましたよ」。
プロ2年目で世界タイトルに挑むも、2ラウンドKO負け。引退の二文字もよぎったが、5歳下の弟分、具志堅用高さんが世界王座に就いたことで、反骨心に火がついた。
「具志堅にできるんだったら俺も絶対できる。チャンピオンにならないと、引退後ずっと『具志堅さん』と呼ぶことになる、と言い聞かせていました」「具志堅にできるんだったら俺も絶対できる。チャンピオンにならないと、引退後ずっと『具志堅さん』と呼ぶことになる、と言い聞かせていました」
世界初挑戦から7年後、2度目のタイトルマッチの相手は、10度防衛中の強敵。米国・デトロイトの完全敵地の中、序盤は攻め込まれるも、6ラウンドに右フックがクリーンヒットし、相手をマットに沈めた。
「無意識で放ったカウンターでした。チャンピオンになると、何でも手に入るかのような気持ちになる。こんなに変わるのかと言うくらい人生が一変しました」
具志堅さんと並んでオープンカーに乗り、那覇市内を凱旋パレードしたときの光景が忘れられない。
「どこまでも人だかりでした。一番の親孝行をしたと思う」。
プロ通算32戦27勝(21KO)5敗。現役を退いた翌1982年、軽井沢へ移住しペンション兼沖縄料理店を開業。冬の寒さはこたえたが、慣れてくると「周りに仲間も増え、住みいいなと思うようになりました」。
2年前、酒や食事を楽しめる店「ちゃんぴおん」を東京都渋谷区に開き、夏以外は軽井沢と半々生活。動画サイトで昔の試合映像を見た若手が、「上原さんのようになりたい」と店を訪ねてくることも。
パンチだけでなく、歌声も一流。現役時代に尾崎紀世彦さんや松尾和子さんのコンサートで前歌を務めた。
「日本タイトル戦でもらう額より、稼げたんです。『お前はボクシングと歌、どっちをとるんだ』って、会長からも言われていました」
一男一女は独立し、歯科医の妻と二人暮らし。チャンピオンに親しみを込め、旧友などからはチャンチャンと呼ばれている。
青山学院大学総合文化政策学部教授 井口 典夫 さん

青山学院大学の恵まれた立地を生かし、「渋谷・青山・原宿の都市文化を前面に出した学部を新設すれば、他大学にはない魅力を打ち出せる」と2008年、総合文化政策学部の新設に尽力した。学生と一緒にイベントやNHKなどTV番組の制作に協力している。2017年11月、国内の大学初となるインターネットTV局「青学TV」を開局。編集室長として、学生らが企画、取材、撮影した動画をほぼ毎日、配信している。
「学校の広報に見えて、実は青学関係の有名人も登場するエンタメ番組。大学がメディア産業になってもいいと思うんです」
「NPO渋谷・青山景観整備機構(SALF)」の理事長として、青山通りや原宿と渋谷を結ぶ遊歩道、キャットストリートの改修計画にも関わる。渋谷駅の連絡通路に芸術家、岡本太郎の大壁画『明日の神話』を招致し、魅力的な街並みづくりのルールを定めた「青山通り街並み協定書」も策定した。
「世界に誇れる日本の顔として、青山通りをパリのシャンゼリゼとも肩を並べる商業街路にすることを目指しています」
幼少期から夏を過ごしてきた軽井沢のまちづくりについても、アイデアを発信。各分野で要職につく別荘住民らからなる「国際文化都市整備機構」メンバーと、毎夏議論を深めている。軽井沢駅周辺に、大学院大学や関連産業の誘致案も打ち出した。
「クリエイティブな高等教育を受けた若者が、その能力を軽井沢のエリアで発揮できる状況を作ってあげないといけない。社会経験を積んだ人にとっては、学び直しの場にもなる」
軽井沢の長年の懸案である、繁忙期の交通渋滞解消についても持論を展開する。
「例えば、離山の下を抜ける車道用のトンネルを掘るとか、プリンス通りの下にもう一本地下トンネルを掘る。それだけで、交通の便はかなりよくなる」
1956年生まれ。1964年の東京五輪を契機に、生まれ育った渋谷・青山周辺が変貌していくのを目の当たりにした。「東京2020大会」は64年に比べ「歴史的な重さはない」としつつも、「キャッシュレス社会の構築、LGBTに対する理解など、社会的な意味で、日本が第一の先進国になれているか自己点検するきっかけになればいいと思う」。
タベアルキスト・味の手帖取締役編集顧問 マッキー牧元 さん
外食は年間600回以上。食べ歩きに関する十数本の連載を抱え、テレビやラジオで「食」について話す機会も多い。食べるときはいつも「料理人のファインプレーを探すこと」を意識している。
「なぜこのソースなのか、何でこの焼き方なのか、料理人の考えを咀嚼して、それを表現するのが面白い」
マッキーさんにとって、旅と食は切っても切れない関係にある。食べることを目的に足を運んだペルーは「ジャガ芋だけで50種類以上あるし、肉も魚も初めて出合う食材ばかり。衝撃でした」。「いつか食べたい料理」を問うと、アルゼンチンの牛肉と仔羊を挙げた。
「食通の間で世界一おいしいと言われている。焼きっぱなしのステーキを現地で食べてみたいですね」
祖父の代から軽井沢に別荘があり、物心つく前から訪れる。幼い頃の、軽井沢の美味しい思い出は今も胸に残っている。
「デリカテッセンのレストラン、中華第一楼、スエヒロ...。もとを辿ると、外食文化に目覚めたのは軽井沢なんです。小さい頃から食いしん坊でした」
今も夏を中心に訪れる。一人で来て溜まった原稿を書くこともあれば、家族とのんびり過ごすことも。
「故郷みたいなものです。一泊するだけで気分転換になる。食べることが目的にならない訪問地は、軽井沢くらい」。
とは言え、食べ歩きもする。
「信州や軽井沢ならではの食材で表現する方がいて、ここでしか食べられないものが増えてきて、いい傾向ですね」
自身初めてのレシピ本『超一流のサッポロ一番のつくり方』を9月に発刊する。サッポロ一番をはじめ、吉野家の牛丼、卵かけご飯、シュークリームなど、手近な食材を簡単に、いかにアレンジできるか追求した。
「動物の中で調理するのは人間だけ。食べる方法を考える過程で、脳が大きくなって、言語も生まれたと言われている。料理には人間の知恵がつまっている」
1955年生まれ。本業は音楽。ビクターエンタテインメントで、アーティストや楽曲の宣伝に携わり、55歳で退社し今の道へ。ポテトサラダ学会、鍋奉行協会、日本駅弁協会など、様々なグループも立ち上げている。嫌いな食べ物は「一切ない」という。
作家 下重 暁子 さん

2015年に発表した著作『家族という病』が、60万部を超えるベストセラーに。お父さん、お母さん、子どもという家族の中の役割分担ではなく、それぞれの個を認め合う家族の姿を提唱した。
「みんなやっぱり家族に悩んでいる。私の本を読んで『肩の荷が下りた』という意見が一番多かった」
6月に独自の夫婦観を率直に綴った『夫婦という他人』を上梓した。今年で結婚生活45年。「期待通りにならないと、落胆が大きくなり愚痴や不満につながる」と、パートナーとは最初から期待し合わない間柄を続ける。ただ、互いの自由はしっかりと認め合う。
「つれあいが数年前から、家の中で花を活けることに凝り始めて、そのセンスがいいのなんのって。40年以上一緒にいても、まだ新しい発見ってあるものです」。
著書を出すたび、批判的な意見も出るが「問題提起と思って書いているので、反論も大いに結構。いろんな人がいるんだし、違う意見があっていい」。
フィクションの執筆に取り組みたいと思っている。
「まずは恋愛をテーマにしたものを書く。早く書いておかないと、人生の締め切りが来ちゃう(笑)」
大学生の頃から、NHKアナウンサー、民放キャスター時代も、毎年一回は必ず軽井沢を訪れた。
「春の頃が好きで、落葉松の芽吹きを見るためによく来ていました」
90年代、軽井沢に家を購入しようと思い立ち、何十軒と見て回った。気に入った物件と出合えず諦めかけていた矢先、今の家と巡り合う。音楽教育家のエロイーズ・カニングハムが暮らした吉村順三設計の建物だったと、あとから知った。
「外観は質素ですが、中に入ると、風の音が通って、雨のにおいがして、外に自然が広がって...。この豊かな空間はなんだろうと、値段も聞かず『ここに決めます』と即決していました」
江戸時代の農民や商人が祝布団や大風呂敷に使った藍木綿の筒描きを50年ほど前から収集し、百数十点所有。そのコレクション展を南ヶ丘美術館・三五荘資料館で9月2日まで開催している。
「江戸時代の職人がつくる芸術作品。二つとして同じものがないのが面白い」
著書のタイトルにもなった「極上の孤独」をテーマにした講演会(無料)も8月19日、同館で行われる。
ノンフィクションノベル作家 橘 かがり さん

30代後半に大病を患い長期入院。友人が見舞いに持ってきた文芸誌を読み耽り、退院したら小説作法を学ぼうと決意した。書き始めて数年、40代前半で「小説現代」新人賞に。受賞作『月のない晩に』は、船で祖国を逃げ出したベトナム難民の姿を生々しく描いている。
「学生時代、『難民を助ける会』のボランティアで、私が日本語を教えていたベトナム人女性と仲良くなって、彼女から聞いた話をもとに書いた物語です。彼女に恩返ししてもらったように感じました」。
今年、増補版が出版された『判事の家』は、戦後最大の冤罪事件とも言われる「松川事件」がモチーフ。最後まで被告人の有罪・死刑を主張した判事、下飯坂潤夫さんは橘さんの祖父。取材のため、祖父が死刑判決を下した人物にも会いにいった。
「最初は驚かれましたが、快く迎えてくれて、その後も何度かお会いし、娘のように可愛がって頂きました」
今年発表した『扼殺 善福寺川スチュワーデス殺人事件の闇』は、1959年の迷宮入り事件について書いたもの。
「未解決事件なら、推理を働かせて小説として作っていける。書くことで事件を風化させないようにするのも使命かなと思っています」
軽井沢は4歳から毎年のように訪問。子どもの頃は万平ホテルに滞在し、周辺をよく散歩した。ある日、母の手を離れ、一人で歩いていると、霧の中で迷子に。
「地面の下から霧が湧いてくるように見えて、生き物みたいで恐いなと思ったのが、最初の軽井沢の記憶として残っています」
5年前から、新軽井沢のマンションで春〜秋の週末を中心に滞在。執筆の場として考えていたが、あまりの静けさに「仕事というより寛ぐモードになり、楽しみのための読書に没頭しています」。
戦前の日本を舞台にしたもの、日中戦争、戦後の多くの未解決事件...書きたい題材は山ほどある。ロッキード事件もその一つだ。1972年夏、田中角栄首相との会談で、万平ホテルを訪れたキッシンジャー米国大統領補佐官を、間近で見たことを覚えている。
「ロッキード事件を書くには、良い経験をしたと思っています」 次の作品に選ぶ題材は何になるのか。新作を楽しみに待ちたい。
鍛冶職人 青山 裕次 さん

軽井沢と滋賀、2拠点で創作
約1200℃まで熱した鉄をハンマーで叩き、目指す形を作る。それらを組み合わせ、門扉やフェンス、室内用のインテリアなどを創作。細長い棒を組んで作るキャンドルスタンドのシリーズは、鉄のしなやかさを生かしたデザインが特徴だ。
「本来の形を維持しながら、空気の振動などで微かに揺れ動きます。細くても復元力がある鉄だからこそできる作品です」
職人というと頑固一徹、他人の聞く耳を持たないイメージもあるが、青山さんの場合、施主と綿密な打ち合わせをして、途中経過を見てもらいながら丁寧に進める。
「できたらパーツで使う葉っぱの一つでも、一緒に作りたいんです。愛着が湧きますしね。人と関わるのが好きで、妻にも『一人で黙々と仕事しているときが、一番のストレスでしょ』って言われます」
鍛冶職人として活動する前は、NHKで報道のディレクターを12年勤めた。ものづくりを生業にする人を取材する機会があり「定年がなく、一生かけて追求できる仕事っていいなって、漠然と思ったんです」。37歳のとき、人事異動でデスクになり、取材に出られなくなると退職を決意。その後、品川の職業訓練校で「思い通り造形できる」鉄と出合い、惹き付けられた。埼玉の師匠のもとで修業を積み、京都の共同工房を経て2005年、滋賀県高島市に工房を構えた。鍛冶の世界に足を踏み入れ21年目だが「職人にとって20年は、『それなりにやってるね』というレベル。まだこれからです」。
作品展のため、10年ほど前から軽井沢で長期滞在するように。歴史ある別荘地の佇まいに魅了され2016年、旧軽井沢に中古別荘を手に入れた。
「白洲次郎、西村伊作、脇田和、吉村順三など、ボクが憧れる日本人の息遣い、その時代の空気感が、軽井沢には残っている。創作のヒントをもらえそうな気がするんです」
この6月、発地に小屋を借りて工房を新設。滋賀と2拠点で創作に取り組んでいく。
「鉄に少しでも興味があれば、気軽に訪ねてもらいたいですね」と体験教室も開催していく予定だ。
軽井沢の空気の中でどんな作品が生まれるのか。一番ワクワクしているのは、おそらく当の本人だろう。


- No.203(2020年5月)まんぼ(小山 裕嗣)さん
- No.112(2012年10月) ステンドグラス工芸家 臼井 定一さん
- No.113(2012年11月) 作家 内田 康夫さん
- No.114(2012年12月) 『フィリピン医療を支える会』会長・歯科医 林 春二さん
- No.116(2013年2月) 画家 大山 美信 さん
- No.117(2013年3月) 軽井沢ホテルブレストンコート総料理長 浜田 統之 さん
- No.119(2013年5月) 日本シャーロック・ホームズクラブ関西支部代表 平賀 三郎 さん
- No.120(2013年6月) サイクリスト 上原 暢 さん
- No.121(2013年7月) 作家・精神科医 加賀 乙彦さん
- No.122(2013年8月) 外交評論家 磯村 尚徳さん
- No.123(2013年9月) 小説家・鷹匠 波多野 鷹さん
- No.124(2013年10月) 写真家 小谷 明さん
- No.125(2013年11月) 軽井沢図書館友の会会長 内山 章子さん
- No.126・127(2013年12月) アニメーター 冨永 潤二さん
- No.128(2014年2月) ソルトレイク五輪スノーボードハーフパイプ日本代表 橋本 通代さん
- No.129(2014年3月) ギタリスト 寺内タケシ さん
- No.130(2014年4月) 作家・ジャーナリスト 佐々木 俊尚さん
- No.131(2014年5月) テーラーメイド ゴルフ代表取締役会長兼社長 菱沼 信夫さん
- No.132(2014年6月) 株式会社バーディ代表取締役 石原 惠さん
- No.133(2014年7月) 小宮山洋子政策研究会代表 小宮山 洋子さん
- No.134(2014年8月) コラムニスト 勝谷誠彦さん
- No.135(2014年9月) さくら共同法律事務所所長 河合弘之さん
- No.136(2014年10月) オペラ歌手 藤井 多恵子さん
- No.137(2014年11月) 美術評論家 海上雅臣さん
- No.138・139(2014年12月) 環境ジャーナリスト 幸田 シャーミンさん
- No.140(2015年2月) 作家 久美沙織さん
- No.141(2015年3月) せせらぎ文庫 主宰 小林悠紀子さん
- No.142(2015年4月) アーティスト デビット・スタンリー・ヒューエットさん
- No.143(2015年5月) 日本エッセイストクラブ理事長 遠藤利男さん
- No.144(2015年6月) ガラス作家 佐藤万里子さん
- No.145(2015年7月) 女優 高田敏江さん
- No.146(2015年8月) 遠藤波津子グループ社長 遠藤彬さん
- No.147(2015年9月) 漫画家 みつはしちかこさん
- No.148(2015年10月) ソニー名誉会長大賀典雄夫人、ピアニスト 大賀緑さん
- No.149(2015年11月) 武蔵野大学教授 川村 匡由さん
- No.150・151(2015年12月) キルト作家 倉石泰子さん
- No.152(2016年2月) 軽井沢会評議員 英義道さん
- No.153(2016年3月) フィールド・マネジメント代表取締役 大雲 芳樹 さん
- No.154(2016年4月) デザイナー 西田 武生 さん
- No.155(2016年5月) 音楽家・抽象画家 マキ 奈尾美さん
- No.156(2016年7月) 脚本家 吉田紀子さん
- No.156(2016年6月) 画家 前田 利昌さん
- No.158(2016年8月)一般財団法人軽井沢会 軽井沢国際テニストーナメント委員長 金子 義明 さん
- No.159(2016年9月)作家 村山由香さん
- No.160(2016年10月)日本女子大学名誉教授 増淵 宗一 さん
- No.161(2016年11月)航空・宇宙技術士 升本喜就さん
- No.162/1631(2016年12月)建築家・東京芸術大学名誉教授 藤木 忠善 さん
- No.164(2017年2月)アマチュア・ピアニスト 村岡 清一 さん
- No.165(2017年3月)絵本作家 accototo(アッコトト) ふくだとしお さん あきこ さん
- No.166(2017年4月)東京都テニス協会常務理事 軽井沢会委員 太田 和彦 さん
- No.167(2017年5月)ハワイアン文化・フラ研究家 ジャズシンガー 井上真紀さん
- No.168(2017年6月)北京大学日本研究センター名誉教授 佐藤 敬治 さん
- No.169(2017年7月)近茶流宗家 柳原料理教室主宰 柳原 一成 さん
- No.170(2017年8月)西村伊作の第九子 西村九和さん
- No.171(2017年9月)明石康さん
- No.172(2017年10月)幸田弘子さん
- No.173(2017年11月)定成 クンゴ さん
- No.174/175(2017年12月号)元スピードスケート選手 三宮 恵利子 さん
- No.176(2018年2月)日本画家 林楷人 さん
- No.177(2018年3月)なおやマン(島﨑直也) さん
- No.178(2018年4月)長岡 はと美 さん
- No.179(2018年5月)平間 亮之介 さん
- No.180(2018年6月)青山裕次 さん
- No.181(2018年7月)橘かがり さん
- No.182(2018年8月)下重暁子 さん
- No.183(2018年9月)マッキー牧元 さん
- No.184(2018年10月)井口典夫 さん
- No.185(2018年11月)上原康恒さん
- No.186/187(2018年12月)垣内光子さん
- No.188(2019年2月)林幸千代さん
- No.189(2019年3月)大槻幸一郎さん
- No.190(2019年4月)ホンヤミカコさん
- No.191(2019年5月)林幸泰さん
- No.192(2019年6月)篠原義易さん
- No.193(2019年7月)朝吹英世さん
- No.194(2019年8月)原田 克乃 さん
- No.195(2019年9月)渡邊 満子さん
- No.196(2019年10月)常田 佐久さん
- No.197(2019年11月)天沼昭彦さん
- No.198・199合併号(2019年12月)田村良雄さん
- No.200(2020年2月)八木唯貴さん
- No.201(2020年3月)谷村秀彦さん
- No.202(2020年4月)渡辺香津美さん 谷川公子さん
- No.204(2020年6月)那須由莉さん
- No.205(2020年7月)團 紀彦 さん
- No.206(2020年8月)渡辺万里さん
- No.207(2020年9月)河上恭一郎さん
- No.208(2020年10月)西倉一喜さん
- No.209(2020年11月)沖仁さん
- No.210/211(2020年12月)羽毛田 丈史 さん
- No212(2021年2月)岩村太郎さん