美術評論家 海上雅臣さん

ph_201411_01.jpg 海上雅臣さん
展覧会の企画や美術書の出版などを行う会社「ウナックトウキョウ」を1974年に設立。「東京で現代美術を理解させるのは大変」と、<海上が苦しむ東京>を縮め社名にした。今やプッシュする作家が次々と評価を得て、巨匠と呼ばれるまでになり、苦しさはなくなった。
「楽にはなったけど、ウナラクトウキョウだとかっこ悪いから、そのままの名前で知らん顔している」
 中学生のとき、棟方志功の版画に出合い魅せられた。棟方の富山の疎開先に手紙を出すと、返信があり文通が始まった。戦後間もない1949年、作品を購入するため荻窪の棟方の自宅を初訪問。海上さん18歳、棟方は47歳だった。
「玄関のたたきに裸足で飛び出して来て『最高のお客さんだ』と、買った作品とは別に二点の版画を『おまけ』にもらいました」
 それからは、棟方版画を世に広めるため奔走。画業を整理し4冊の本にまとめ、谷崎潤一郎の小説『鍵』の挿画が生まれるきっかけを作った。1956年、棟方がヴェネチア・ビエンナーレ国際版画大賞を受賞すると、「役目も終わり」と別の作家を探した。  陶芸家の八木一夫、書家の井上有一も、海上さんが見出した。井上との出会いは1970年、多くの書家の作品が集まる展示会だった。
「有一だけが習字の枠を飛び越え、独自の字を書いていた。彼と懇意だった人は、『先生を特殊にしてしまった』と責めるけど、もともと特殊だったんだから、仕方ないこと」
 自身のことを美術評論家ではなく、アーティストマーカーと称する。
「いいと思った作品は、まず買って展示して楽しむ。それがいかに楽しいかを伝えるのが僕の美術批評。世間に知られるべきと思った人物は、押して押して押しまくる」
 東京生まれ。84歳。軽井沢は今は亡き奥様と出会った思い出の地であり「懐かしい、心からの故郷」。両親と過ごした千ヶ滝の別荘は弟に譲り、40歳の不惑の記念に追分に別荘を新築。今は一年を通して暮らしている。80歳のお祝いの席でこんな歌を詠んだ。
<不惑以後 わくわく有一有一と さえずってきて 二度目の不惑>
 今は日本の古典美術の良さを見直すべく活動している。わくわくの日々はまだまだ終わらない。

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