【軽井沢人物語】古美術三度屋五寄庵 店主 佐藤 袈裟孝 さん

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三船プロの小道具に抜擢 数々の映画に携わる

 旧軽井沢の自宅前にあった映画館「国際映画劇場」に5歳から通った。阪東妻三郎演じる国定忠治に憧れ「どうしたら画面の中に入れるか、ずっと考えている子どもでした」。映画館で眠ったまま取り残され、行方不明騒ぎになったことも。

「子どもがさらわれたと、街じゅう大変だったらしい。叔父も東京から夜行でかけつけ探してくれた。その後も懲りずに通ったけどね」

 上田松尾高校を中退し、東京俳優学校に通うため上京。エキストラの仕事で知り合ったプロデューサーに小道具の仕事を紹介され、裏方として関わるようになる。

 「画面の中に入るのは役者だけだと思い込んでいたけど、裏方で携わった作品を観たときに『あ、俺この中にいる』って感じられた。それからはもう裏方一本」

 セットの中を装飾し道具を揃えるのが役割。監督に頼まれた品をやっとの思いで見つけ持って行って、全く使われないことも珍しくなかった。

 「演出に迷った監督がわざと小道具待ちにして、考える時間をとることがあるんだね。あとで知ってびっくりした」

 1967年、日米合作の映画『大平洋の地獄』に、外部スタッフとして参加。主演の三船敏郎さんに気に入られ、そこから三船プロダクションの小道具を任せられるように。三船さんについては「とても神経が細かくやさしい分、心にため込む人だった」。酒の席でため込んだものが爆発することもあり、飲まない佐藤さんらはお目付役をたびたび任されたという。

 1977年、旧軽井沢に開業した骨董店の名は、先祖が営んだ脇本陣「三度屋」から。幼い頃はどのお店でも奥にテーブルがあり、お客さんとお茶を飲みながら世間話する光景が見られたが「今は売り買いだけなのが寂しい」。自身の店には今も、来訪者とのお喋りを楽しむため、テーブルを構えている。

 1938年生まれ。80年近く前に卒園した軽井沢幼稚園で年4〜5回、園児を前に講話している。昔の遊びや着物について教えたり、防空頭巾持参で戦時中の体験談を語ることも。

 「子どもは正直。つまらない話だとすぐ立ち上がっちゃう。逆にこっちが吸収することの方が多いね」。

 店の壁には、園児からのお礼の手紙が何枚も飾られている。

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