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中国との友好関係作りに尽力「日中は助け合いで成り立っている」

北京大学日本研究センター名誉教授 佐藤 敬治 さん

hitomonogatari.JPG 佐藤 敬治 さん
 10代の多感な時期を戦火の中で過ごした。学徒動員のため、中学2年から軍直轄の横浜造船所で、朝8時から夜8時まで働き詰め。「学業の時間を少しでも」という希望をみんなで決めて提出し、ある日の午後の仕事を放棄した。
 すると、軍刀を手にした将校が学生らの集まっていた食堂へ。「首謀者は前へ出ろ」という呼びかけに、一歩を踏み出した。
「みんなで決めたから、全員前へ出ると思ったんですけどね。振り返ると、私以外誰も出ていない」
 そのまま一人特高警察送りに。横浜憲兵隊の司令長官が遠戚だったこともあり、何とか憲兵隊に身柄を移してもらい釈放された。
 1945年8月6日、原子爆弾が投下される40分前まで広島市にいた。前日に江田島の海軍兵学校で入学試験を受け、朝7時35分発の山陽本線で広島をあとに。大阪に着いて初めて、特殊爆弾が落ちたことを知った。
「江田島から私たちのあとの内火艇に乗った人は犠牲になった」
 大学を卒業後、外務省終戦連絡事務局、神奈川県庁などを転々。1950年代、パリの国際機関にいたとき知り合った北京大学の教授に依頼され、中国の近代化、経済の仕組み作りに協力。その縁もあり、北京大学日本研究センターで教鞭をとるように。学生らに古典経済、中国近代史を教えた。
 1980年代始め、大連で知り合った中国残留孤児の肉親探しに奔走。メディアでも大きく取り上げられ、残留孤児の存在が広く知られるきっかけを作った。
 軽井沢に移住して26年目。2012年発足した軽井沢日中友好協会の会長を務める。当時は尖閣列島の問題もあり、日中関係が冷え込んでいた時期で、立ち上げに反対する声もあった。
「色々な考え方があるのは当然。ただ日中は唇歯輔車(しんしほしゃ)の関係で、お互い助け合うことによって成り立っている。隣国と仲良くすることに問題はない」
 中国河北省承徳市と訪問団を派遣し合うなど、民間交流を続けている。数年のうちに、承徳市で軽井沢文化祭を開くのが夢だ。
 今年、米寿を迎える。前述の戦時中の経験から、モットーは「目立たないこと。自然の流れに身を任せ、こせこせしないこと」だという。
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